桜咲



 空は朝から冴えない灰色だった。降水確率、40%。水気をたっぷり含んだ天蓋を見上げて、どうか雨粒が落ちてこないようにと祈っているのは、この東京で五人に二人よりは多いかもしれない。
 理由は明白、今週中にはほとんどの並木が満開を迎えることになっている、そして日本人ならきっと誰もがそれを待ちわびている、桜。木の枝の先までいっぱいに花びらを咲かせた状態の今、天から勢いよく雨が打てば、薄い花は冷たい地面に無残に散らされることになるだろう。週末になれば綺麗に咲き誇った桜を愛でようと計画を立てている人々にとっては、気が気でない事態だ。
 しかし新一は、そんな空模様を窺いながらも、花びらが無事枝にくっついたままでいるかという心配をするでもなかった。新一とて週末に花見の予定がないわけではない。ただ、大学の連中とのそれは花より団子になるだろうということは目に見えている。建前として花は咲いてくれていなくては困るが、咲いていなくたって実質構いやしないのだった。雨が降って花が落ちてしまっても、花を口実に騒ぐことさえできればいいのだ。
 惜しいことは確かだ。けれど、散らない花はないし、満開を迎えることなく散ることも、それもまた仕方のないことだと思う。
 膝の上に、ぼんやりと読んでいた推理小説を開いたまま、新一は、リビングの大きなガラス越しに空を眺めている。曇りのち雨の予報通り、花見を抱える人々の願いを裏切って、雨は降るのだろうか。今のところ、雲は予報士の言葉に違わず動いているようだ。
 とん、とん、と二階から人の降りてくる気配がする。ややあって、リビングの扉に見慣れた同居人の顔が見えた。
「おはようさん、工藤」
「おはようって時間じゃねえけど?」
 あくび交じりの平次の方を向いて、からかいの言葉を投げてやる。平次はキッチンに移動しながら、それは言わんといて、ええやん。休みやし、等と笑いながら言い訳をする。いつも通りの朝だ。
 またぼんやりと小説の文字列に目を戻した新一に代わって、コップに注いだ牛乳を手に平次が空模様を窺っている。
「雨降りそうやなあ」
「天気予報じゃ多分降るだろうってさ」
「そしたら、週末は微妙になってまうな」
「ちょっとくらい散ったところで関係ねえだろ、どうせ」
 週末の花見の面子を思い浮かべながら言い遣る。そやな、と平次が同意する。しかしそれでも仕切りに外を気にしている様子だ。
 そろそろ昼時にもいい時間。腹減ったなあ等と思いながら、碌に頭に入っていなかった小説のページを閉じた。冷蔵庫の中身を思い浮かべて、何を作れるだろうかとメニューをあれこれと巡らせる。しかし、ぴんと来るものがない。料理をするのもなんとなく億劫に思っていると、平次の声が思考に割り込んだ。
「なあ、花見行かへん?」
 曇り空を背に言い出す平次をソファの中から見上げる。
「……行くだろ?週末」
「そうやなくて、今から」
「今からって……雨降んだろ、今日」
「せやから、雨降って桜の花が散ってまう前に、見に行こや」
 恐らく、これはもう平次の頭の中では決定事項だ。伺いをたてられてはいるが、曇天の下の花見は本日の予定に既に組み込まれていることだろう。しかし、素直に従ってやるのも面白くない気がして、新一は条件を出す。
「ドルチェ・ヴィタで昼飯。それのついでなら、行ってもいいぜ」
 近所の小さなイタリアンレストランの名前を提示した。手ごろな値段で満足のいく料理が出される、気に入りの店だ。
「ええで、俺も朝飯と兼用で何か食いたいし」
 ほんなら準備するわ、と、平次はいそいそとリビングを出て行く。今出かけていって、雨が降るか降らないかは予測がつかない。とりあえずと、空腹を満たすための店のメニューを思い浮かべながら、新一も外出のための仕度を整えることにした。


 食事を終え、店を出たところで、やっぱりリゾットにして正解だったと新一は胸中で呟いた。菜の花とアサリのたっぷりと入ったリゾットは、新一の味覚も胃袋も満足させるに充分なものだった。
「うまかったなあ、」
 平次も満足気に言葉を漏らしている。平次が頼んでいたのは、多めに盛られた鶏肉のトマトソーススパゲティ。気に入りらしく、平次は定期的に店にくるとこのスパゲティを食べている。あまりおいしそうに食べるものだから、新一もいつも、思わず横からフォークを伸ばしてしまうのだ。
 空は相変わらず平面的な色合いだ。しかしまだ雨が落ちてくる気配はない。しばらくはもつのだろうか。足を進める平次の後に続いて、問いかけた。
「で、どこに見に行くんだ?」
 平次は笑顔で振り返る。
「あっこの坂の上にある、さくらの公園。前、工藤が教えてくれたやろ。桜咲いたらいっぺん行ってみたいてずっと思ってたんや」
 ああ、と頷く。そういえば以前に平次に教えたことがあったのだった。坂を上りきったところにある小さな児童公園。狭い敷地のありふれた公園だが、この季節の景観から『さくらの公園』という呼び名で近所の人間には親しまれている。公園の本当の名称は別にあるのだが、新一は思い出せない。
 楽しみやな、と弾んだ声を上げながら、平次は坂を上っていく。新一はその半歩後ろについた。足元に目を落とすと、平次のスニーカーが軽く舗道を蹴っている。空に視線を転じた。平次の歩調はそこに広がる灰色とは裏腹な軽さだった。
 上げた視線の先、空に溶けそうな淡い色が見える。

 小さな公園はさながら花びらのドームになっていた。公園の中や外周に植えられた木は、全てがソメイヨシノだ。狭い敷地内は、桜の淡い色ですっかり覆われている。公園の中に立つと、頭上まで伸びた桜が壮観だ。
 本当は近くに広い芝生に桜の木も何本か植えられた自然公園があり、そこにさくら公園の名前は冠されていた。しかし、ここに住むものにとっては桜のきれいな公園といえばこの『さくらの公園』なのだった。
 桜の木で囲われた小さな遊び場を、新一も小さいころからよく知っている。公園内には、二つの踏み台がぶら下がったブランコ、子供が二、三人で遊べばいっぱいになってしまうくらいの砂場、背の低い滑り台、そして水飲み場がひとつ。
 必要最低限の遊具。もっと広いスペース、充実した遊具のある公園は他にもある。しかし新一は幼いころから何故かここが好きだった。桜の季節以外にもよくここへ来たがり、母親の有希子を不思議がらせていた。何故好きかは自分でもよくわからなかった。
 けれど、花のないこの場所によく来ていたからこそ、咲き誇った花びらで包まれる季節になると、落ち着かないくらいに心が騒ぐ。
 はあ、すごいなあ、等と感嘆の声を上げながら、平次は公園内に足を踏み入れていた。ぐるりと囲む桜の木々をしきりと見上げている。
 グレーの背景に咲く花は、晴れの日の華やかさとは違って、しっとりと濡れたような風情を見せていた。それは、心に馴染むと同時に、どこか焦燥めいた気持ちを刺激していく。
 小さな園内でゆっくりと弧を描く平次の足取りを、入り口の辺りでなんとなく落ち着かずに見ていた。
 たくさんの花を付けているがまだ開かない蕾も見える木の枝を眺めながら、平次は口を開く。
「満開には、あともうちょいってとこやな」
 今でも充分きれいやけど、と付け足して、
「けど全部咲いたら、ホンマに綺麗やろなあ、」
 そう目を細めて笑った平次に一瞬目を奪われた。
 そんな自分に気付いて、誤魔化すように枝の先の花に視線を移す。平次は新一の様子に気付いたそぶりは見せずに、ブランコの方へと足を向けている。
 鎖の一本に手をかけて、釣り下がった踏み台にぐいと足を乗せる。平次は窮屈そうな踏み台の上に、それでも身体を何とか収めて、膝を使って漕ぎ出した。
「なーにやってんだよ、」
 新一は思わずふっと笑いを漏らして、ブランコの平次のところへ近寄った。よっしゃ、と呟いた平次が子供のように目を輝かせてブランコに勢いをつけようとする。
「…って、わっ、なにすんねん工藤!」
 そこへ横から足を伸ばして、踏み台を蹴飛ばした。ぐらぐらと揺れる踏み台の上で、鎖にしがみ付いた平次が抗議の声を上げる。その様子に笑い声をたてていると、何とかブランコの揺れを収めた平次がひょいと足を下ろした。
「なんだ、お終いか?」
「蹴り落とされたらかなわんしな」
「んなことしねーって」
「どの口が言うてんのや?ホンマに不思議やで」
 芝居がかった口調で言った後、お互い顔を見合って笑う。
 ふと、平次の手が伸びてくる。首筋の辺りを指先が掠めていった。驚いて、思わずびくりと首を竦めた。
「花びら、ついとった」
 そう言って、指先に淡い花弁をつまんで見せながら、目を細めて微笑む。新一を見つめながら。それが、先程桜の木を眺めながら見せていた表情だということに気付いて、新一は気の抜けた間抜けな顔で固まってしまった。
 平次はぷっと吹き出すと、指先の花弁を新一の顔にふうっと吹きかけた。
「っ、服部っ」
 反射で閉じた瞳を開くと、平次はくるりと背中を向けて空を仰いでいた。
「あ、工藤、晴れてきそうやで!」
 そして空が明るさを湛え始めているのを見て、声を上げる。平次が指し示した空の端には、雲の切れ間から青い空が見えていた。
「桜、散らんで済むな。よかったわ」
「…そうだな、」
 本当に嬉しそうに笑顔を浮かべ言う平次の声が、胸にじわりと染みた。
 桜の木が全ての花を咲き誇らせる頃、空も晴れ渡るのだろう。
 それはもう、すぐのことだ。










(07/4/8)