sight. 人間が視覚から受け取る情報というものはとても多く、そして強い。 そんなどこかで聞き齧った知識を思い浮かべた。その情報の強さに耐えられないときはどうすればいいか。それはもちろん、視界から情報を遮断すればいいのだ。 「アタリやと思うで、今回のんは。強引やて言う奴もおるみたいやけど、俺はあんくらい勢いがあったほうが好きやしな。久々にええもん読んだ、て思ったわ」 聴覚だけを傾ける。そこから与えられる情報ですら今の自分にとっては凶器にもなり得たが、映像と共に受け取るよりは幾分心穏やかになれた。落とした視線の先は平たい皿に盛られたカレーライスと、それをかき回すスプーン。 話題に上っているのは先日発売されたばかりの新作ミステリだった。周りにちっとも染まることのない関西弁でその作品の出来を語る平次の様子は、至極嬉しそうだ。しばらく低迷気味だった贔屓の作家が出した久々の『アタリ』に、興奮を見せている。 昼時の学生食堂はいつものように騒がしい。向かい合う席を何とか確保して昼食にありついたのはつい先ほどだ。お互いの手元には、同じカレーの皿があった。一皿三百円という安さが売りの学食のカレーは、味も値段に見合ったもので、これ以上の料金で食べようとは思えない。しかし、「カレーにするわ」とさっさと食券のボタンを押した平次に釣られ、新一も同じボタンを押してしまったのだった。 平次は「まずいなー、これ」と言いながらも、いつもそのカレーを平らげる。今日も話す言葉の合間に、平次のカレーは次々と口へと運ばれていく。新一は、カレーを掬うのに紛らせて視線を落とした手元で、またスプーンをかき回した。 「工藤の意見はどうや?」 ひとしきり感想を述べてから、平次が新一の方へ話題を寄越す。カレーを掬いもしないのにいつまでも手元を見ているのも不自然に思われるかもしれないと、新一はそれとなく顔を上げた。 そこには新一の返答を期待する平次の瞳があった。 条件反射的にまた少しだけ、目を伏せてしまう。 不振がられないように、すぐ言葉を継いだ。 「ん、よかったと思うぜ?今までの低空飛行に比べたら、断然な」 そんな風に言えば、平次はすぐに声を上げてくる。 「今までは充電期間やったんやて、これからは期待できるで、きっと」 息巻いて言う口調は、更に興奮の度合いを増している。 そりゃ、楽しみだ、と新一は口元を上げて言うと、すっかり混ざってしまっているカレーライスを掬う。そのスプーンを口元に運んだ。 まずいなあ、と思う。 人間の視覚はそれを持つ人間のパーソナリティに属する。情報はそれだけでは何も意味を持たないが、それを受け取った側に存在する付加価値によって、どんな意味をも持つ。 それが今の新一を困った事態に陥れていた。見ているものは変わらない、もうこうして顔を合わせて話すようになって数年は経つのに、今になって、そう、何故か今になって。 相手に対して生まれた新しい価値観、それを認識、理解するのにもずいぶんと苦労したのだが。否定できないものが自分の心の中に、しっかりと根付いてしまっているのに気づき、何とかそれを認めたと同時、今度はその価値の付いてしまった情報に悩まされている。 まともに、平次の顔を見ることができない。 それでも何とか不自然にならないよう、気付かれないよう、でき得る限りの気を配ってきたつもりだった。こんなことで、築いた友情を壊したくはない。何より、それが知れたとき一体どう受け取られるのか。まったくらしくもなく臆病になっていた。 しかしそれももう限界だ。 午後の講義も終えて、平次と二人、帰路についた。ここ東京では部屋を借りて一人暮らしをしていた平次だったが、今日はまっすぐ帰る様子はなく、道すがら「工藤んち、寄ってってもええ?」と伺いをたてられた。珍しいことではない。そう訊かれて新一も断ることはほとんどないため、慣れない断りの言葉は、今日もとっさには出てこなかった。 工藤邸の大きな門の前にたどり着く。玄関の鍵を開けて、平次を招きいれた。平次が上京してきてからは日常茶飯のことだ。けれど近頃は、どうにもこの瞬間が落ち着かない。 いつもと同じくリビングに通して、新一はキッチンへ向かいかけ、戸口で振り返って何か飲むか、と声を投げる。 そのとき、はっきりとした声で平次が言った。 「なあ工藤、ちょお、聞きたいことあんねんけど」 「…なんだ?」 いつも腰を落ち着けるソファに座ることもせず、平次は黒目がちの瞳でまっすぐ新一を見ている。 一転している平次の空気に、新一は口元を引き結んだ。 新一は焦点を少しずらした平次の肩口に置いていた。けれど、平次のまっすぐな視線ははっきりと感じる。平次は新一の瞳をまっすぐに見ている。 けれど今の自分はそれを見返せない。 今の視線を少しずらせば入ってくる情報、それによって反応するだろう自分。それを平次に、情報として、受け取られたくはない。 はあ、と平次の唇からゆっくり息が漏れた。新一を責めるように感じられて、視線が、また少し下がる。 「……工藤、なんか俺に、隠し事でもしとるんか?」 続いた言葉は、概ね予想通りだった。 「別に、そんなもんねーけど?」 口の中で用意していた言葉を放す。なるべく、平次の顔をちゃんと見ていると思われるように、微かにずらした視線を上げて。 平次の、表情が険しくなるのがわかる。 やっぱり無理か、誤魔化せるわけねえよな。自嘲気味に思う。平次のまっすぐな瞳は、新一の誤魔化しを許したりはしない。そんなこと、わかっている。 「そういうんはちゃんと人の目、見て言えや」 苛ついた口調は、とっくに平次が新一の挙動に気付いていたことを伝えてくる。気づきながら、なるべく気に留めないようにとはしてくれていたのだろう。 けれど、それも限界、ということか。もう、新一が平次の顔をまともに見なくなって、一週間近く、経つ。昼間、いつもと変わらない明るい口調で語りかけてきた平次を思い出した。 平次の足が動いて、新一の方へ近づいてくる。 新一は、それとわかるように視線をそらした。平次の険しくなっている気配が更にはっきりと感じられた。 「工藤、」 先程の険が少し和らいだ声で、呼びかけられる。 「……俺、なんかしたか?」 気に障ることでもしたか、と、平次は新一の顔色を窺ってくる。おそらく平次が熟考してたどり着いた可能性のひとつ。けれど、そんなことでは決してない。 理由は自身がよくわかっている。しかし今それを教えてやることも、新一にはできない。 「……違う」 たった、それだけしか言えない。 それを聞いた平次の空気が、また鋭くなるのがわかった。 「工藤っ」 「…って、」 突然二の腕辺りを強く掴まれ、呻いた。左腕を引かれた反動で、右肩辺りが、戸枠にぶつかった。痛みを訴えた箇所を抑えようと右手を伸ばそうとして、しっかり掴まれた腕はびくともしないことに気付く。新一は小さく舌打ちをした。 平次は新一の半身を掴み上げるようにして引き寄せる。力では平次に敵うことはなかった。 「ちゃうなら、何で、」 力の加減すらする余裕のない平次、そのことに気づかずに新一は、文句の言葉を投げつけるため、思わず顔を振り仰いだ。 「てめ、馬鹿力…っ」 ただの勢い。だからこそ自分の状況を失念した。 思わず、近くまで迫ってきていた平次の瞳を正面から、見てしまった。 怒りの表情があると思っていた。しかし、目に飛び込んできたのは縋り付くような、焦りと、戸惑いを含んだ瞳の色。 認識したとたん、それは新一の背筋を貫いた。 「あ……」 慌てて、手の甲で口元を覆う。しかしとっくに遅かった。 平次は、その新一の表情を見て、一瞬呆けたような顔を見せた。しかし二、三度瞬きをし、新一の表情の意味することを驚きながらも理解したらしい平次の顔は―― この上ない笑顔に、崩れた。 「っ、」 それは更に身体中を奔り、新一は、顔中に上った熱をどうすることもできない。しかし平次の顔から視線を逸らすこともできずに、どうしようもない熱を持て余すこととなった。 平次は、その間も子供のような安心しきった笑顔を見せ、それから、少しばつが悪そうに鼻を擦って、「スマン、ちょお感情的になった」と、情けなく、言った。 そしてそっと腕から外れて伸びてきた手に、新一は何も言えず、緊張から一気に開放されて脱力した身体を預けることしかできなかった。 (07/4/28) riquest from Fujino-sama in 10000hit. |