東京スヰート



「僕の導き出したこの白刃を踏むかのような大胆な行動が…真実だとしたらね…」

 仮面の下から現われたその瞳は、真っ直ぐに真実を穿つ曇りのない瞳。
 確かにそこにあるその姿は、彼がその場に待ち望まれた人物であることを偽りなく、物語っていた。
 その瞳に、囚われた。
 いや、そんなことはもうとっくに手遅れだったのかもしれなかった。


 白いシーツに埋もれる、漆黒の衣装に身を包んだ彼。伏せられた瞼、その顔もまた、包んだその衣装に反して雪のように白い。
 呼吸は安定している。
 傍には彼を心配そうに見つめ続ける、彼の幼馴染。身にまとった純白のドレスはとても清らかな色だ。眠る彼を心配する、心そのままに。
「う……」
「新一?」
 彼女が上げた声に、反射的にベッドを覗き込む。瞼がふるりと震えた。
 室内にいた者達も様子に気付いて、ベッドに横たわる彼の周りに集まった。薄いそれがゆっくりと持ち上げられるのを見守る。
 開かれたそこに見えた漆黒の瞳。小さな彼が持っていたものと同じ光は、間違いなく彼だということを示していた。
 その瞳は辺りを見回すと少し驚いたような色を見せ、二、三度瞬きをした。
「おー工藤!目ェ覚ましたか!」
「よかったー気ぃついて!」
 皆が安堵の笑顔とため息を漏らす中、大阪人持ち前の軽さで初めに声を上げたのは自分。そして自分の幼馴染がそれに続いて、不安の糸が解けたように皆口々に言葉をかけた。
 その中心、皆に囲まれ身を起こした本人はきょとんと、不思議そうに周りと自分の体とを見比べている。
 その姿に、思わず笑いがこみ上げる。
 あれは、なんで体ちいさなってないんや?って顔や。
 この場では自分にしかわからないだろう彼の驚きの意味。戸惑う様が、その内情を手に取るように推察できるのでさらに、可愛らしいなんて思えてしまう。
 口元に浮かぶ笑みを抑えきれずにいると、説明を求めるように彼の視線が向けられた。彼の戸惑いを解ける可能性のある者は、ここでは彼の事情を知る自分のみ。そのことに微かな優越を感じてしまったのは、気のせいではないだろう。
 とりあえず、その視線にぱちりと笑顔でウインクなど送ってみる。それを受け取った彼は、胡散臭そうに瞳を眇めてこちらを見た。


「私もそろそろ着替えてくるね」
 帝丹高校学園祭中に起こった殺人事件。そこへ姿を現して事件を鮮やかに解き、しかしその後突然倒れた新一だったが、「最近事件続きでちょっと疲れが溜まってて…」という本人の言葉で周りの人々もひとまず納得、安心したようだった。他の生徒達はそれぞれ帰り支度をしに行き、この保健室には新一、蘭、平次、和葉の四人が残っている。
 劇の途中で事件に巻き込まれたため、ハート姫の衣装のままの蘭が言う。
「新一は、着替えはどこ?」
「あ…体育館の舞台裏にそのままになってっと思うけど…」
「じゃあ、とってくるね」
「いーよ、そっち行って着替える」
 そう言うと、新一はベッドから足を下ろした。
 新一もまた劇の衣装のままだ。仮面やマントは脱いでいるが、漆黒のそれは黒衣の騎士。すらりとした立ち姿は先程の、演目にはなかった推理劇を思い起こさせる。
「大丈夫なの、新一。もう少し休んでても…」
「平気だって、」
 気遣う蘭に軽く答えて、新一は確かめるようにぐるぐると肩を回す。点検するよう身体のあちこちに触れ、納得したのか小さく頷いた。違和感などは、ないらしい。
「でもかっこよかったなぁ、黒衣の騎士!工藤くんやて知らんかったし、びっくりしたわ」
 新一の姿を見て思い起こしたのか、和葉が声を上げた。
「そや、俺もびっくりしたで?なーんもきいとらんかったからなぁ…」
 そのおかげでいらない世話を焼いてしまったことも思い出した平次が、ちくりと視線を送ると、新一は取り繕うように笑みを浮かべた。「工藤新一」自身が現われたので、それはただのお節介にしかならなかった。現われなくとも効果を得ていたとは言い難かったけれども。
 ただ、新一が現われた時の驚きといったらなかったので、ささやかな仕返しと言ってやった。突然に現われてすぐ、当然のように平次に事件解決の手助けを求めてきたので、その場は反射的に頭が事件のことに流れてしまっていたが。
 けれども、新一が現われたこと、そして、そのことで気付かされたことは平次にとって、晴天の霹靂、正にそう言えるものだったのだ。
「私だって聞かされてなかったもの、まったく、手の込んだイタズラよね」
「蘭ちゃんも知らんかったん?」
 目を丸くする和葉と、可愛らしく睨む蘭に新一は苦笑いを浮かべている。しかしその様子はどことなく、嬉しそうだ。そしてその顔をそのままこちらに向ける。
「服部たちはどうすんだ、これから。まだ時間大丈夫なのか?」
「せやなあ、飛行機の時間にはまだも少し…」
「ああ、そろそろ行かせてもらうわ」
 和葉の言葉をさえぎって、平次は言う。
「俺、帰りのチケット買うてないんや。早めに行っとかんと、」
「なんやの、平次、買うてないん?今日は来られへん言うてたのにけったいなイタズラしに来るわ、帰りのチケットも買うてないわ…」
 和葉がじとりとした視線を投げてくる。
「うっさいわ、こっちにも都合があんねん」
「なんの都合や、わけわからんわ」
 自分達のそんないつもの応酬を蘭がにこにこと見守っている。新一を見やると、こちらも口元に笑みを浮かべていて、なんとなく気に入らない平次は手を振って会話を打ち切った。
「ほんなら、またな。……調子悪いんやったらあんま無理するんやないで、工藤」
「お、おう」
 単に具合が悪い、というわけではない新一の身体を気遣った声をかけると、新一はもの言いたげ平次に視線を向けた。何か言おうとしてか口を少し開きかけ、けれどやめる。蘭や和葉のいるここでは、迂闊なことは口にできないのだろう。
「ほな、蘭ちゃん、また遊びに来るな」
「うん、またそっちにも行くね」
 蘭に見送られながら、和葉と共に二人に手を振る。新一はまだ開きかけた口をそのままにしていたが、平次はそれに笑いかけてやると、保健室を後にした。

「しっかし、ホンマかっこええなぁ、工藤くんて」
 お祭りもすっかり終わりの雰囲気に包まれている。雨の上がった雲の下、片付けに走る生徒の間をすり抜けながら、和葉と並んで校門へと向かう。
「事件もあっちゅう間に解いてまうし…黒衣の騎士ん中から出てきた時はしびれたわ、ホンマ」
 和葉が興奮冷めやらぬように言う。
 新一がその姿を現した時。平次はぽかんとその場に立ち尽くして、おそらく間抜けな顔を晒していただろう。
 新一が元の身体に戻っていたなんてことは知らなかった。その場にいた新一であるはずのコナンが灰原哀の扮装だったことも。しかし仮面の下から現われた瞳は間違いなく、彼が新一であることを証明していて。
 「服部、」と当たり前のように呼ばれて平次は、新一がコナンであったことなどはただの自分の夢で、自分はずっとこの「工藤新一」と友人であったかのような錯覚に陥った。しかし、実際に平次が付き合ってきた新一は「コナン」の姿を借りた彼で、本来の高校生の姿の新一と会うのはたったの二度目、それも前にその姿を見たのは一時間にも満たない時間だ。
 姿がどうあれ新一は新一、どちらも彼なのだと改めて感じたのは、事件の推理を披露する姿を見て。真実を突き止める曇りない視線は小さな彼と全く同じだ。
 それは平次が追い求めた、東の名探偵工藤新一に違いなかった。
 コナンになる前には新聞の紙面をよく賑わせていた。同い年の高校生探偵というのが気になって、彼の記事は必ずチェックした。しかしあるときを境に、すっかりその姿を見かけなくなった。行方不明、などという噂まで耳にし、事実を確かめるために東京まで自ら赴いた。
 そのときに偶然、元の姿に戻れた新一に会ったのだ。その後、その場にいたコナンという少年が新一の正体、と知ることになったのだが。
 元の新一の姿を見るのはそれ以来のことだった。
 平次と同じ高さにある目線、すらりと伸びた背、理知的な瞳、子供の可愛らしいものとは違う、整った顔立ち。
 改めて見ることの叶った姿に、思い知らされた。普段、子供の姿であるコナンと接している時には気付かなかったこと。
「蘭ちゃんが羨ましいわ、あんなかっこええ幼馴染がいて……」
 和葉がちらりとこちらを見る。
「ああ…そやな…」
 呟くと、和葉は拍子抜けしたというように瞬きをした。
「なんやの、いつもやったら俺の方がかっこええーとかなんとか言うんに」
 張り合いないなあ、などと漏らす和葉の隣で、足を止める。
「和葉悪い、ちょお忘れもんしたわ、先行って、タクシー捕まえといてや」
「ちょ、平次?」
 言い放つと、くるりと方向転換した。呼び止める和葉の言葉をそのままに、元来た道を戻る。
「もう、なんやのん!」
 背中にその声を受けながら、胸に持った想いを反芻する。
 阿呆や、俺は。
 雲間から覗く空が夕焼けに染まっていた。

「あれ、服部」
 体育館の脇、人待ち顔で佇む姿を見つける。
 黒衣の騎士の衣装を脱いで、帝丹高校の制服を着る新一は、どこにもいる高校生のように見える。
「なんだよ、帰ったんじゃなかったのか?」
 笑顔を向けられ、平次も口元を引き上げる。
「ああ、ちょお、忘れもんしてな…」
「そうなのか?まあ丁度いいや、お前に礼も言っときたかったし」
「礼?」
 なにやらにやにやとした笑みを増やして、新一の手がぽん、と平次の肩に置かれる。
「でも俺はあんな流暢な大阪弁しゃべってねーけどなぁ……」
「そのことかいな…」
 平次の焼いてしまったいらない世話のことを持ち出されて、がっくりと肩を落とした。なんとも気恥ずかしい。
 コナンの正体が蘭にばれかけていると聞き、何か自分が力になれないかと考え、工藤新一に変装してコナンと一緒にいるところを蘭に見せる、という計画を思いついた。結果は、うっかりいつも通り大阪弁でしゃべってしまった上に和葉にあっさり見破られ、全く役にも立たず、平次がただ恥をかいただけで終わった。
「まあお前にも一応心配かけてたのに、今回のこと伝えてなかったし……って言っても俺も急に灰原から聞いたことだったんだけどな」
「ああ、あのちっこい姉ちゃんから大体のことは聞いたで…」
 新一の体を小さくしていた薬の解毒剤、試作品とのことだったがそれが丁度できていたので飲ませた、と。本人が出てくると知っていれば、平次がわざわざ変装する必要もなかった。
「なんともないんか、体の方は」
 薬のことなど、平次には詳しくはわからない。しかし人間の体を縮めたり伸ばしたりしてしまうものだ。前に新一がこの姿に戻っていた時も苦しそうに胸を押さえていたし、現に先程も倒れた。心配になって訊ねる。
「ああ、今は全然。灰原はまだ未完成品だって言ってたから、すぐコナンに戻るって覚悟してたんだけどな。この調子ならもしかするともう戻らなくていいかもしれないぜ?」
 至極嬉しそうな顔で微笑む。ずっとこの姿に戻りたいと願っていただろう。当たり前だ、急に子供にされ、苛立ちや不安、もどかしさをきっと抱えていたのだろうから。
 その笑顔は、コナンがよくしていた子供らしく見せるための演技の笑顔と違い、純粋な心の底からの笑顔だった。
 それは実際に子供の姿をしていたときよりも子供らしくも見え、その姿に、胸に抱いた想いが疼く。
 あかんな…やっぱり。
 腕を伸ばしたのは、反射的なもの。それでも必要以上に力がこもらないよう、なんとか抑える。
「そやったらめでたいで、ホンマ、」
 新一の肩にまわした腕で、ぽんぽんと叩く。並んだ肩は、思ったよりも華奢で、しかしその存在感を伝えた。友人の範囲内として許されるだろう距離を保つのに、苦労した。気付いてしまう前はそんなこと考えもしなかっただろうに。
「この身体なら、コナンの時みたいな不自由はねぇし…西の名探偵くんにも大きな顔をさせておかせずにすむぜ」
 目線を変えずに交わる瞳で、新一は満足そうに口元を引き上げた。
「東の名探偵の本領発揮か?そら恐ろしいわ」
 肩をすくめておどけてみせる。それと共に回したままだった腕を、そっと外した。
「ほな、行くわ」
「あれ、忘れもんはいいのか?」
「ああ、もうええわ」
 あっさりと言うと、新一は不思議そうに瞬きをする。平次はそのまま行こうとして、思い起こしたことに足を止めた。
「…あの姉ちゃんのこと待っとんのやろ、」
「蘭?ああ、今着替えてるっつーから…」
「さよか。ま、うまくやれや」
 笑顔を作って言ってやる。意味を取り損ねたのか疑問符を浮かべる新一に、からかうように笑みを上乗せした。
「ようやく元の姿に戻れたんや…ちゃあんと言うこと言うんやろ?」
 胸を突いてやる。新一の頬に朱が差した。
「なっ…バーロ、聞いてたのか?」
「さあなあ、」
 新一がなにやら蘭に耳打ちしていたことは知っていたが、内容までは知らない。恐らく話があるなどと言って、今後の算段でも付けていたのだろう。
 新一が想いを寄せる幼馴染。彼女の方も、姿を消した新一を待つ姿を見ていれば、その想いは一目瞭然。新一が一言告げれば、二人は上手く行くだろう。
「首尾よく行ったら、教えろや、工藤?」
「…んで、オメーに教えてやらなきゃならねーんだよ…」
 頬を赤らめたままに、ぶつぶつと文句を言っている。その様子に、胸中でくすりと笑いを漏らした。
 それくらいは許してくれてもいいではないか、と思う。
「ええやんか、いい結果聞けんの待っとるわ」
 ほんなら、和葉も待たせてるし、と手を上げる。
「勝手に待ってろよ、」
 素っ気ない言葉だったが、顔には笑顔が浮かんでいて、平次にはそれで充分に思えた。


「忘れもん、あったん?」
「ああ…」
 東京の街を走るタクシーの中、問いかける和葉におざなりに答える。
「もう、さっきからなんやのん平次、なんか変やで?具合でも悪いんか?」
「ああ、あかんわ…」
「え、ホンマ?」
 思わず答えた言葉に、和葉が心配気な声をあげた。それに気付いて、慌てて取り繕う。
「あ、ちゃうちゃう、こっちの話や」
「はぁ?もう、知らんわ!」
 ぷいと和葉は顔を背け、窓の外を見ている。機嫌を損ねてしまったか、と思うがもう手遅れだ。いつものことに、こっそりとため息をつく。
 同じように反対側の窓に視線を移した。夕焼けは際から夜の闇へと染まりつつある。
 流れる街並とその空を眺めながら、新一の深い瞳を思い出す。夜を湛えたような、黒の瞳は水面鏡となって真実を映す。
 真っ直ぐに、同じ目線で合わされたその瞳に暴かれたのは、平次自身でも知らなかった想いだった。

 あかんな、ホンマに。
 ……惚れてしもてるみたいや、工藤、お前に。

 それがいつからのことかもわからないほど。
 しかし、今はっきりと抱いているこの想いは、確実に平次の胸を支配していた。








(06/10/28)