Last Summer アメストリスの夏は、暑い。 冬は当然寒く、夏は更に暑い。そんな気候のこの土地は、人が好んで居住するものではないのではないかと、それらがどうにもやりきれなくなった時に思ってしまう。 夏は毎年やってくるもの。何度もその暑さを体験していればそれに対する抗体ができても良さそうなものだ、とも思うが人間はそのように便利にできているわけではない。夏になれば決まってその暑さに閉口する。と言っても冬になればなったでその寒さには凍えることになるのだが。 この国でもう何度という夏を過ごしてきたロイにとってもそれは例外ではなかった。 執務室の自分のデスクにつき、そこに積まれた書類に目を通す。しかし、途切れることなく感じられる暑さに気をとられ、その視線は面白みもなく並べられた文字を上滑りするだけだった。ただそこに座っているだけで体力を削り取られていくような熱気に、自然と肩もぐったりと落ち込む。 開け放した窓からは、時折軽く風が吹き込んだが、それは乾いた空気しかもたらさない。東の向こうに広がる砂漠から、ざらついた砂が運ばれてくるようだった。 その風が頬を撫ぜると、荒涼とした大地と、自分の指先から放たれた焔の熱さが思い起こされる。この風は、あの大地も渡ってきたものなのだろうか。 一種、郷愁にも似た感覚に捕われる。あの場所に立ち、多くのものを焼き払った。それはもう何年前のことか。ロイは自分がもたれている椅子の背を撫ぜた。革張りのその背は、心地よく手のひらに馴染んだ。あの頃からはずいぶんと遠いところまで来たものだ。あの大地の空気を懐かしいと、またその場所で生死を共にした、戦友のかさついた手のひらの感触を懐かしいと感じるくらいに。 今日中には目を通し文末にロイのサインを添えなければならない書類たちは、ロイの手の中でただの紙切れと化していた。気のそれてしまった頭をその書類へと戻そうと試みるが、どうにも上手くいかない。やはり、この暑さの所為だろうか。 「今日は…どうにも、駄目だな」 そう一人言つと同時に、軽やかなノックの音が響いた。 「私です、入ります」 続いて聞こえた声は、よく聴きなれた凛と通る声。ロイの返答を待たずにドアは開けられた。他の者であれば許されることではないが、ロイは彼女に対しては構わない、と告げてあった。 「お疲れ様です」 彼女、ホークアイは部屋に足を踏み入れては軍人らしく上官に対しての敬礼を欠かさなかったが、その右手を下げると空気を和らげる。 その視線が、ロイの手元でとまった。 「……すまないね、まだ半分も目を通せていない」 言い訳をせず素直にそう告げるとリザはあきらめたように息を洩らした。 「いつも申し上げますが、そうした書類は溜めると後が大変だと」 「耳に痛い言葉だ」 こうして時間に追われて机に向かうことは、これが初めてどころかもう何度目のことか思い出すことすらできない。その度、このロイの腹心の部下は重ねて忠告を進言してきたが、ロイもどうにもこれは癖としか言いようがなく、毎回同じような状況に陥っている。 並んだ文字に目を通し末尾にサインをする、それだけの単純作業だ。後に回しておいても支障はないだろうといつも思うのだが、気付くと細々としたそれらが溜まって楽観できない量になっている。立場上、それらの内容を把握しておく必要があるので目を通す作業を疎かにもできない。 それでも近頃は以前に比べれば真面目にそうした仕事をこなしてはいたのだが、ここ最近の暑さが祟ったのだ、という言いわけをすることもできた。 しかし、今更言ったところでこの状況が変わるわけでもない。 「夕方からは会議ですから、それまでにはなんとかしていただかないと」 「わかっているよ。しかし、どうにも暑くて集中できなくてね」 ホークアイの言葉に、ロイは期待せずその言いわけじみた弱音を口に乗せてみる。 だがそれを言ってみた効果はあったらしく、ホークアイは幾分和らいだ口調で言った。 「……そうですね。何か、冷たいものでもお持ちしましょうか?」 女性らしい気遣いの含まれた言葉だ。ロイにとってもありがたい提案だったので、頼むよ、と笑顔で感謝の意を示した。 しかしホークアイがそれに極上の笑顔を返し、 「その分、仕事はきっちりと終わらせていただきますから」 と、言ったのには「厳しいな、」と苦笑するしかなかった。 ホークアイが執務室から出て行き、後に残されたロイは彼女が戻ってくるまでに多少なりとも仕事を進めておかなければならないか、と再び書類と向き合った。しかし彼女がやってくる前と何ら変わらず、集中力を取り戻さない頭では一向に進まない。 結局早々にあきらめ、おとなしくしていることに決めた。冷たいもので頭を切り替え取り掛かった方が効率がよさそうだ。 ロイは手にしていた書類の紙束をデスクに放り出し、上半身をその上にぐったりと預けた。 乾いた風がまた吹き、ロイの黒髪を揺らして通り過ぎた。 意外にもそれに心地よさを感じ、不快続きだった感覚からつかの間解放される。そのまま瞼を下ろそうとした瞬間、頭上から声が降ってきた。 「よーう、ロイ」 思わず、がばっと音が聞こえそうな勢いで、ロイは身を起こした。 「ヒューズ!ノックぐらいしろ!」 いつの間に部屋に入ってきたのか、突然目の前に立っていた男を睨み上げ、言い放つ。 ヒューズは相変わらずのだらしないにやにやとした笑みを携えていた。悪びれた様子もなく「悪い悪い、」と言ってへらりと笑う。 その笑みに毒気を抜かれ、だらしなくデスクにうつ伏せていたところを見られたバツの悪さもどこかへ行ってしまった。この男に対して格好を取り繕ったところで、今更なのだが。 「いつこっちに来たんだ。顔を見せるなら、連絡くらい入れろ」 「ああ、ついさっきだ。来るのは急に決まったことで、連絡手段がなかったからなあ。びっくりしたか?」 いくつになってもまるで少年の頃のような口調で、楽しそうに言う。ロイを驚かせようと思ってわざと連絡を入れていなかったのだとしても、不思議ではない。そういう子供っぽいことを未だヒューズはよくやる。もういい大人だろう、とも思うのだがそれがヒューズという男だ。 「何か用か。まさか、私を驚かせるためだけに来たわけじゃないだろう」 「冷たいねえ、用がなきゃ親友の顔を見に来ちゃいけないのか?」 「お前は純粋にそれだけのために来たことがあったか?大抵はエリシア嬢の写真を見せびらかすついでだろう」 「そんなことはないぜ?でもご所望とあらば、天使のような俺のエリシアちゃんを見せてやらんこともないが…」 そう言っていそいそと軍服の胸ポケットに手を差し入れるヒューズを、「いや、遠慮する」、と手をかざして制す。ヒューズはがっかりした様子で、彼の愛娘の写真をポケットに戻した。 「まあ、折角こっちに来れたからな。暑さでへばってるロイ・マスタング殿の様子を伺いに来てやった訳だよ」 先ほどの怠慢を揶揄され、ロイはむっと口を引き結んだ。 「へばっていない」 ロイ自身でも全く説得力のないと思える台詞に、ヒューズは耐え切れなかったように、ぶはっと吹き出した。それを上目遣いに睨みつけてやる。 「それでへばってないってんなら、この国の人間は誰も夏バテとは無縁だな。なんでも、東の方の国では夏の暑い最中に輪になって踊り狂う祭りがあるそうだ。それに参加でもしてきたらどうだ?」 「踊り狂う?ああ、確か前にファルマンから聞いたことがあるな。死者の魂を呼び戻す祭りだそうだな。踊り狂う、とは言ってなかったと思うが」 ヒューズはそうだったか?と言って頭を掻いた。 魂を呼び戻す。こちらでは魂の練成と呼ばれている行為のことなのであろうか。そう考えると輪になって踊る、というのも一種の練成陣のようなものかもしれないと興味深く感じる。 「で、どうなんだ?俺がいなくても上手くやってけてるか、ロイ殿は」 ヒューズが揶揄すように言った。まるで自分がいなければロイは上手くやっていけないと言いたいような口調だ。ロイは不満げな視線をヒューズに投げた。 確かに、ヒューズとは士官学校の頃からの仲で、学生の時にはルームメイトとしてお互いに何かと面倒をみたりみられたりということは多かった。ヒューズに言わせればロイが面倒をかけた方が多いというが、それは頼みもしないのにヒューズがロイの世話を焼きたがったからだ、と思っている。ヒューズは世話焼きの気質であった。 士官学校卒業と同時に従軍、共に当時内乱状態にあったイシュヴァールの戦場に送られた。 その場所で、戦争、というものに打ちのめされた。 当時試験段階にあった国家錬金術師の兵器としての戦場投入は、士官学校を出たばかりの若造だったロイの元にも当然のごとくその要請が来た。そうでなくとも、ロイの得意とする焔の練成は実践に大いに役立つものだ。 そのロイを中心とした部隊に、ヒューズが組み込まれていたことは不幸か、幸いか。 ともすればぐずぐずと溶けてしまいそうになる意識でロイは親友に必至に縋りついた。他に、縋りつけるものがなかったからかもしれない。 焼け野が原に一人残されたロイの腕を、その都度掴んで引っ張り上げたのはいつでもヒューズだった。その手によって、幾度となくロイは死地から生還したように思う。ロイの腕を掴んだ、砂と埃と泥にまみれたかさついた手のひらはいつでも熱く、その熱を感じてロイは自分がまだ生きていることを知った。 ヒューズは戦場でも変わらずロイの世話を焼いた。戦争が終わり戦場を後にするまで、ヒューズはロイの手を離すことなく引いて歩いた。 確かにあの場所では、ヒューズにそうして手を引いてもらわなければ無事に帰っては来れなかっただろう。 戦争から帰還したロイ達はそれぞれの配属先に送られた。ヒューズはセントラルの軍法会議所、ロイは東方司令部に。ヒューズとは別れる形となったが、それが何ら問題があるはずもない。 イシュヴァールの溺れるような砂も、銃弾の雨も、恐怖に支配された視線も、焼けた大地と人間の匂いもない場所では、ヒューズに縋らなければならない理由はなかった。そして、ロイには優秀な部下たちがいた。彼らはヒューズとは性質は違えど、大いにロイを助けてくれる。 しかし、ヒューズはこうして時々ロイのところにやって来た。近くまで来た、と言っては愛娘の自慢話を延々とし、その写真をばら撒き、ついでのようにロイの近況を聞くと満足したように帰ってゆく。 その娘の自慢話のついでだとしても、本当に、ロイは自分がいなくてやっていけているのか、と様子を見に来ているのであればとんだ自意識過剰である。 ここには自分を見つめる畏怖に満ちた目も、一面の焼け野が原もない。 だからお前がいなくても全く平気なのだ、とロイはいつも言ってやりたい。 しかし、はっきりとその台詞を言えた試しは一度もなかった。 「心配されることはない。万事、順調だ」 「……そう、にもみえねえがなあ」 ヒューズは高く積まれた紙束を横目で見る。 「これは、最近の暑さが酷くて、だな…」 指摘され、再びその良い訳じみた言葉を口に出した。ヒューズは慌てた様子のロイを可笑しそうに見つめ、 「どうせ、リザちゃんにせっつかれてるんだろう?まったく、お前に彼女がついててくれて本当に良かったよ」 そうじゃなければこのサボリ魔はどうなることか、と大げさに肩を竦めた。 いつまでたってもロイを子ども扱いする男を、ロイは睨め付けた。ホークアイはロイのお守り役と、ともすれば部下からすら言われることがあるが、ロイにとっては心外なことだった。皆、自分のことを誰だと思っているのか。 「邪魔をしに来ただけなら、帰れ」 そう邪険に言い放つと、当然のように食い下がると思っていたヒューズは聞き分けよく、「わかったよ」と身体を反転させた。 そのまま本当にドアまで行こうとするので、ロイは思わぬことに慌てた。 「ヒューズ、」 椅子から腰を浮かせて思わず声をかける。ヒューズは「ん?」と笑顔で振り向いた。 呼び止めたものの、続く言葉が見つからずしばらくその姿勢のまま逡巡した。 「……折角来たんだ、茶の一杯くらい飲んでいけばいいだろう」 なんとか言うことを見つけて声を出すと、ヒューズは少し目を丸くしたあと、くつくつと笑い始めた。 「何が可笑しいんだ」 「いや、帰れって言ったのはそっちなのにさ、」 下を向き口元を手で押さえて、ヒューズはなかなか笑いやまない。 「おい、ヒューズ!」 「悪い悪い、でもそんな時間もないもんでな。そろそろ行かなきゃなんねえ」 ヒューズはやっと笑いやんでロイに視線を向けた。 ゆっくりとロイの前までやってくると、机の向こうから手を伸ばしてくる。その手のひらがロイの頬に触れた。 そっと包み込まれたその手のひらはひんやりと冷たく、身体に溜まった熱気を吸い取って行くようだった。 「もう、俺がいなくても平気だろ?」 「ヒューズ…?」 「お前は、ここまで来たんだ」 添えられた手のひらに、頭を引かれた。ヒューズは机越しに上体を傾け、ロイの額に軽く唇を触れさせた。 それは、士官学校のとき、上級生からの嫌がらせを受けた後や、イシュヴァールでのあの長い夜の間、軍で昇進するための様々な人間関係に疲れた日、そんな度にヒューズが与えてくれた優しさと全く変わらないものだった。 ヒューズはロイを、そんな度に立ち上がらせてくれた。 額、頬、首筋、そして最後に唇に口付けて、ヒューズは離れた。 大きな手のひらが離れていく。それをロイはみつめていた。 「じゃあな、ロイ」 ヒューズはにっこりと笑って、再びドアへ身体を向けた。 今度は不思議と、引き止めることはできなかった。 「どうかされたのですか?」 声をかけられ、ロイは自分がまだ腰を上げたままだということに気がついた。立ち上がったまま、しばらくそのままでいたらしい。 ドアの前には、氷の沈んだグラスを丸いお盆に乗せて持ったホークアイが立っている。彼女は立ちっ放しのロイを窺いながら、グラスをロイの机の上に乗せた。 「ああ、ありがとう……いや、今、ヒューズが…」 「ヒューズ、准将…が?」 ホークアイはその名前を聞くと怪訝そうにロイを覗き込んだ。 そのホークアイの瞳を見て、ロイは途端にそのことに気付く。 何を言っているんだ、ヒューズはもうとっくの昔に、こちらの人間ではないではないか。 「……いや、寝ぼけていたらしい」 そう言って笑顔を作ると、ホークアイも口元を緩ませた。 「それでは夕方までに書類の方、よろしくお願い致します、大総統。会議の前にまたお迎えに上がりますので」 「ああ」 敬礼をして部屋から出て行くホークアイを見送る。 グラスに口をつけた。よく冷えたそれは喉を潤し、全身に染み渡っていった。熱が、消えていく。 窓の外を見やる。この大総統府からはセントラルの整った街並みがよく見渡せた。 約束は果たされたよ、ヒューズ。 乾いた風は、もう吹き込んではこない。 (05/7/27) |