ブラックアウト


 意識が霞んでいく。
 全てが闇に溶けていく。

 頼む、

 まだもう少しだけ。
 あと、少しだけ。

 最後のわがままだ、神さま。
 あいつの声を聴かせてくれ。



「……ズ、ヒューズ!」
「……あ……」
 遠く聞こえた声に呼び戻された。
 初めに差したのは傘も何もない、くすんだ裸の電球の光。その鈍い光は角膜を通して頭の髄まで届いた。ぎゅうっと、頭の奥が締め付けられるような感覚。
 そして次に視界に入ったのは、まるで子供みたいに不安に表情をゆがめた、親友の顔だった。
「……よう、ロイ」
 安心させてやろうと、乾いた唇の端で笑ってやった。喉が焼けたように張り付いてしわがれた声しか出せなかったが。
 それでも笑うことには成功できたようで、ロイは泣き笑いのようなあからさまな安堵の表情を浮かべる。しかし自分でそれに気付くと、慌てて表情を引き締めた。だがそれも長くは続かず、一呼吸後にはまた情けなく崩れた。
「馬鹿が、」
 吐きすてられた言葉は、ヒューズに向けられたものではなく、自分自身に向けられたもののように思えた。それは痛々しくロイ自身の胸を刺しているようだった。
 ヒューズの背には硬い、ベッドの感触。ごわごわとした毛布がひっかけるように被せられている。
 ベッド脇の椅子に腰掛けたロイの、肩越しに見えるのは粉塵にすすけた壁。そしてヒューズたちのいる空間だけを狭く区切っているらしい、白い幕。しかしこれも砂埃に黄ばんでいる。
 今は国軍が制圧、占領し、駐屯地として扱っている市街の建物の中だろうと見当をつけた。戻ってきたのか、と思う。
 肘をつき上半身を持ち上げようとする。しかし、これが自分の身体だろうかと訝しむくらいに重い。それでもその鉛のような身体を何とか動かし起き上がろうとするヒューズを見て、ロイが腰を浮かせた。
「おい、ヒューズ…」
「っ……ぐ…!」
 しかしロイが止めるまでもなく、ヒューズは途中で硬直せざるを得なかった。左の脇に、鈍くも重い痛みを覚えたからだ。
「おい、無理するな」
 ロイがヒューズの肩を掴んでベッドに戻そうとする。しかし怪我人を無理に押し戻すことはできないようで、力は入っていない。その腕をほどいて、痛みを発する場所になるべく負荷をかけないようにゆっくりと身を起こした。上には何も着ていない。脇に持っていった手に、きつく巻かれた包帯の感触がある。
「気付いたのか」
 丁度身を起こしきったとき、白い幕がめくられた。足を踏み入れてきたのはヒューズも顔を見知っている、いささか歳のいった軍医。ベッドの上のヒューズに視線を投げてきたが、特に感情の動きも見えない表情で言った。
「あと数センチ内側だったらどうなってたかわからんが、応急的に止血もしてあった。弾も貫通してたんで、取り出す手間が省けたのは幸いだったな」
 それだけを簡潔に言うと、踵を返す。
「まあ、ここでくたばるくらいなら、戻ってこんでくれた方がこっちとしては助かったがな。死体処理の手間は省ける」
 そして入って来た時と同じく、無感情に言い残して再び白い幕の向こうへ出て行った。
 ロイは、軍医が出て行ったあたりをしばらくじっと睨んでいた。しかし、軍医の言った言葉はもっともなことだ。今、この場所においては。
 イシュヴァールの空気は乾いている。
 ヒューズは潤いを全く感じることのできない喉から、かすれた息を吐き出した。
「……飲むか?」
 ロイがブリキのボトルを差し出してきた。ありがたく受け取り、口をつける。金臭い水が、それでも喉を潤した。
「ああ、生き返った」
 真面目ぶった顔でいうと、ロイはようやっとふっと笑みめいたものを顔に浮かべた。
「それはよかった」
 ロイの顔は、背後に見える壁と同じく砂塵にすすけて汚れている。
「ずいぶんとうなされていたぞ」
「ああ…?そうだったか、」
 それで、この男はヒューズの側についていてくれたのか。暗に心配した、という様子がロイの表情をかすめた。ヒューズは意識が戻る瞬間に遠く聞こえた声を思い出した。暗い闇に沈みゆくように感じた意識を、引き上げた声。
 ロイは浮かべた笑みはそのままだったが、ぽつりと呟いた。
「死ぬのかと、思った」
「まさか。おおげさな、」
 そうは言ってみせたが、真実味のある返答ではないことは充分わかっていた。
 自分たちはいつ死んだって全く不思議ではない状況にいる。先ほどの軍医も、助かったのが幸いと言っていたではないか。当然生き延びれる、なんて保証はこの土地のどこにも転がってはいない。
「ロイが連れ帰ってきてくれたのか」
 そう問うと、小さく頷く。
「お前がここでくたばっていたら、死体を持ち込んだ俺が恨まれていたな」
 ロイはそんな風に笑った。けれどもその笑いも乾いてかすれていた。


 ヒューズの属する部隊は、駐屯地から南へ下った場所にある街の制圧作戦に向かった。
 そこは大きな反乱軍勢力が潜んでいるとみられていた街だった。武力もかなりあるようで、ただの一個大隊くらいでは、苦戦を強いられていたことだろう。
 しかし、ヒューズの属するこの部隊は、他とは全く異なる点があった。そしてその点において、他の『ただの一個大隊』とは一線を画する部隊であった。
 国家錬金術師を投入した、前線部隊。
 このイシュヴァールの内乱にあたって実施され始めた錬金術師の戦場投入は、実験的な意味合いも含まれているようだったが、充分に効果的であったと言える。数名の錬金術師の組み込まれたこの部隊は、他とは比べ様もない力で次々に反乱軍を制圧していった。
 錬金術師一人につき千人もの兵力に劣らない、と言われる。事実はわからないが、実際それくらいの威力を持っていてもおかしくない生き物なのだ、錬金術師というヤツは。
 錬金術師もそれぞれ扱う術の傾向は違い、もちろん全ての錬金術師が前線の兵力として、一部の人間の言葉を借りれば『人間兵器』としての力を発揮するような錬金術を扱うわけではない。しかし、逆に言えば前線に送られるような国家錬金術師は、皆それだけの威力を持った術師である、と言い換えることができる。
 ロイ・マスタングもそのうちの一人だ。
 士官学校に通う時分から、国家錬金術師の称号を持っていた。ロイのような若さで国家錬金術師になれるものは少ない。したがってその珍しさ、優秀さゆえに、羨望、妬みといったものの的にされがちだった。しかしその優秀さは、果たして羨むべきものなのだろうか。それはこの戦場で彼の姿を目にして抱いた疑問だ。
 『人間兵器』の言葉の意味するところそのままに、その身ひとつで戦場に降り立てばたちまちにその力を示す。たった二本の指を擦り合わせるごく小さな動作で、あたりの大地は彼の焔に文字どおりにのみこまれる。
 今回の作戦ではまず錬金術師を中心とした先方隊が奇襲をかけ、突破口を作った後に本隊が突入する、というものだったが、実際のところわざわざ何百人からなる本隊を動かさずとも、数隊の錬金術師とそのサポートにあたった者十数名のみで、制圧には充分すぎる兵力だった。事実、後からやってきた兵士達はあらかた制圧の目処のついた街の、細々としたヨセをやらされたにすぎなかった。
 ヒューズはこの作戦でその先方隊のうちのひとつ、『焔の錬金術師』を核に置いた隊に配置されていた。それは自ら志願したことだったが、士官学校でも首席と呼ばれる位置にいたことがそれを助けた。
 ヒューズたち、錬金術師の周りを固める兵の何よりの優先事項は、要の錬金術師が倒れないようにすること、だ。兵はいくらでも変えが効く。だが、錬金術師の変えは、そうそうない。特に戦場で実用的な力を持つ、全てを焼き払う焔を操るこの国家錬金術師は。
 言葉どおり身を盾にして守れ、とそういう命令だった。
 だがヒューズがそのときにとった行動は、命令を遵守したということではなかった。
 それは士官学校から共に時を過ごしてきた、お互いに親友と認める者を前にしたごく自然の行動であり、そうした行動を取れる自分はやはりこの隊に志願しておいてよかったとヒューズを思わせた。戦場に私情を持ち込むべきではない、しかしそれは時としてよい方向に動く。
 錬金術の力はやはり大きく、ほぼ街の制圧も完了されたところだった。作戦の終了を目前にし、このままなんとか帰還できるであろうという目処が、気の緩みを生んでいたのかもしれない。
 焔に焼かれた建物、崩れた道。抵抗勢力をあらかた抑えこみ、数分前にはそこかしこで聞こえた銃声のやり取りもようやく静まった街。ロイを中心とし四方を固めた陣形を成しながら、しかし数分前よりも緊張のほどけた足取りで歩を進めていた。
 ロイが自分の焼いた土地を、検分するようにつま先で蹴りながら数歩ほど、陣形の先に出た。それを止めなかったのは失態としか言いようがない。
 ロイの左手、瓦礫となった塀の影から何かが、ふらりと現れた。
 ロイの腰ほどしかないそれは、褐色の肌をした、子供。
 手には、その小さな手にはあまりに不釣合いで大きすぎるライフル銃。
「あああああああっ」
「ロイ!」
 ロイが現れた子供を認識し、躊躇を振り切って捻りざま右手を擦り合わせるのは、その我を失った子供がライフルのトリガーをひくまでには間に合わない。
 そう判断したかしないか、ヒューズは飛び出した。
 直後熱い痛みが走り、視界の隅で、肩で押しのけた焔の錬金術師が右手を擦り合わせるのをみて、意識が落ちた。
 赤い焔がはしった。


「…っかし、悪運強いねえ、俺も」
 独り言のヴォリュームで呟やいたそれは、しかしロイに聞きとがめられた。眉を顰めている。
「……死にたかったのか、」
「そんなわけねえさ。けどこうして助かるたびに、きっと次はっていう思いは、ある」
 自嘲するように吐き捨てた。
 この土地に安全に生きてゆける保証なんてどこにも見当たらないが、死という言葉だけはどこでもみかけることができる。
 命が繋がる度、次に来るであろう死のことを考える。それは、最早習慣めいたものだ。
 こんな場所で死ぬつもりは毛頭ない。しかし、死というものの威力は圧倒的だ。自分にもたらされるものでも、他人にもたらされるものでも。
「俺より先には、死ぬな」
 そうきっぱりと言ったロイの口調は、焔の錬金術師としての命令口調で。しかし、ヒューズはそれに諾と頷くわけにはいかなかった。
「そうか、だがあいにくなことに、こっちはお前を先に死なせないって勝手に決めてる」
 返す刀のその台詞は、ロイを黙らせるのには充分だったようだ。
 黒い双眸が見張られ、まっすぐにヒューズをみつめる。ヒューズはその視線をそらすことなく、受け止めた。
 数秒の沈黙の後、
「では、死ぬ時は一緒だな」
 と、ロイの口が動いた。
 口元を引き締めた、至極真面目な顔でそんな台詞を口にしたロイをみて、ヒューズは思わず笑みをもらした。
 場所が場所でなければ、その台詞はまるで。
「まるで、一世一代のプロポーズみたいな言葉だな」
 にやけ顔で言うと、みるみるうちにロイの眉間に皺が寄った。
「そんな馬鹿なことを言える気力があるのなら、当分は死なないな」
 むっつりと言われた悪態に、ヒューズは更に笑みを上乗せした。
「ああ、当分は死ねない」



 意識が霞んでいく。
 全てが闇に、溶けていく。

 頼む、

 少しだけでいい
 これが最期であるなら、せめて

 あいつの声を



『……ッ、ヒューズ…ッ!』
 遠く聴こえた声に呼び戻された。
 しかし意識には霞みがかかったまま。
 身体は、果てしなく重い。
 いつものように、安心させてやるために口元を引き上げようとしたが、それすらままならなかった。
『どうした、何があった。返事しろ、ヒューズ!』
 白む視界にぼんやりと入るのはぶらりと下がった受話器。そこから聴こえる、声が耳を揺らす。
 その声は不安と焦燥に滲みきっていた。
 おいおい、なんて声を出しているんだ。
 子供のように、わめきたてる声。それを認めて、ようやっと口元に笑みを浮かべることができた、ように思えた。
 しかしその声に答えてやれるだけの力は、もうない。
 歩けば死にあたるようなあの土地にいたときでさえ、それでもなんとか生き延びた。
 しかし、そんな死の土地からさえ舞い戻ってきた自分が、崩れた塀も、人々の絶望も、焔に焼かれた大地もないこの街の片隅のちっぽけな電話ボックスで、どうにも動かない身体を横たえている。
 いや、こんな街だからこそ、か。狂気や絶望に、平和という仮の布を被せたこんな街だからこそ、こんな落とし穴にはまるのだ。
 その穴に、彼が落ちないようにと気を配ってきた。それはある意味、自己満足のようなものだったかもしれないが。結局、自分が落ちることになったか。
 悪いな、一緒に死んでやることは、もうできそうにない。
 実のところ、自分はそうしてやるつもりは塵もなかったんだが。
 最期って言うものはもっといろんなことを考えるものだと思っていたが、こんなにたった一人のことしか考えないとは、相当だ。
 いや、しかしそれは、こんな最期なんて湿気た場面で思い浮かべるのは愛する妻や娘じゃなく、彼のほうが相応しく、そして自然なことであるからかもしれない。
 最期にこうして、耳に聴こえてくる声も。
『……ヒューズッ』
 悪いな、
 お前より後に死ぬ気なんて、これっぽっちもなかった。一緒にって考えも悪くなかったが、それも賛成しかねる意見だった。お前の望みはかなえてやれなかったけれど。

 意識が落ちた。
 焔がひらめいた気がした。





(05/8/11)