みえない、そのさき


 片目が見えない、というのは意外に不便なものだ。
 視野が狭く、視界のない左側のものの認識が遅れる。歩いていると人やものに何度もぶつかる。でもぶつかることにはそのうち慣れた。道を歩く時などは、流石に車とぶつかるのを慣れるわけにもいかないので、ずいぶんと神経を使うが。
 当然、両目で見るときよりも視力が落ちている。見えていたときにはもっと遠くまで見渡せていた気がするが、今は、その視線の先がぼんやりかすんだ。
 遠近感はうまくつかめない。これには初め、どうにも困った。慣れてくればなんとかマシになったが、微妙な距離感がつかめないために今でも手探りでものの位置を探る。そこに存在するものの位置をつかみそこなう、ぼんやりとした不安感がどうしても付きまとった。
 それでも、少しずつはこの片目の生活に慣れてきていた。それこそ初めはしっかりと歩くことすらできなかったが、今はもう見た目くらいは以前のように生活できている。
 ただ、世界が前より狭くなったかもしれない。

 一年前には完璧なしあわせで作られていた家は、その後大きな欠落によって崩れてしまった部分を時と共に埋め、ささやかなしあわせで造り直されていた。
 上品でかわいらしい白いドアの前に立ち尽くしてロイは、やはり自分はいつになってもこの家の前にこうして立つのは似合わない、と思った。このささやかなしあわせの家に自分が足を踏み入れることは、この家を汚すような気がしてならない。
「お久しぶりです、……お元気そうで」
 しあわせの家から出てきた女性はその家に似合ったやさしい笑顔の女性で、ボブの淡い髪を揺らした。
 ロイを更にこの家と不釣合いにさせている左眼を覆った黒の眼帯にそっと目を留めて、グレイシアは少しだけ笑顔を曇らせた。ロイはそんな彼女に口元を緩めてみせた。
「そちらこそ。しばらくご様子も伺いに来れず、申し訳ありませんでした」
「……いえ、お忙しかったのでしょう?」
 グレイシアはそれだけ言うと、この眼帯を意識に留めるのをやめたようだった。そうしてくれた方がこちらとしても気が楽だ。そのことをわかっているのだろう。相変わらず敏い女性だった。
「立ち話もなんですから、よろしければ中へ、」
 そう勧めるのを丁寧に断る。
「今日はご挨拶に伺っただけですから」
 首を振ったロイにグレイシアは、首を小さく傾けた。
「あっ、ローイー、」
 そのときぱたぱたと家の中から子兎のような足音が聞こえたかと思うと、グレイシアの足元に子兎に勝る可愛らしさの少女が現れた。金色の髪を揺らして、上気した頬を覗かせる。
「ローイ、今日遊んでくれるの?」
 初めのうちは親以外の大人という存在であるロイに声をかけられるだけでも母親の足元に隠れてしまっていたものだったが、何度か足を運ぶうちに彼女本来の気質なのだろう、奔放さや人懐こさが現れ始め、今ではすっかりなつかれてしまった。父親譲りのペールグリーンの瞳がキラキラと揺れている。
「すまないね、エリシア。今日は遊んであげられないんだ」
「えー、どうして?」
「エリシア、ロイさんを困らせては駄目よ」
 母親がやさしく嗜める。エリシアはそれでも子供にだけ許されるわがままで、不満だと身体を揺らした。
 この一年でエリシアは成長し色々な表情を見せるようになった。それこそ、それを見ることの叶わない彼女の父親が地団太を踏んで悔しがることが想像に難くないほど。子供の成長は早い、そのおおきな瞳で世界を見渡し、ぐんぐんと自分の中に取り込んでいく。
 次に会う時この少女はどんな表情を見せるのか。
 それを彼女の父親を差し置いて楽しみに思うのは、今のロイにとっては許されることではないのだが。
「……しばらくは、遊んであげられなくなる」
 付け足した言葉に、グレイシアが意味を問う視線を投げかけてきた。その視線を、かすむ右目だけで受け止める。
「北へ、行くことになりました」
 微笑んでみせたロイへもの言いたそうに動いた瞳が、ロイの右目からその肩口へとすべった。そしてそこで止まると、一呼吸だけ、息をのむ。
「……北、ですか?」
「自分で志願したことです」
 何故、と言いかけたグレイシアを遮ってロイは言った。
「……ローイ、会えなくなっちゃうの?」
 その場に落ちた空気に不満を不安に取って代わられたエリシアが、ロイの足元に縋りついた。
 ロイは目線をエリシアにあわせてやった。金色の髪をそっと梳く。
「しばらくの間だけだよ」
 そう言った声はかすんで薄れ、エリシアのその不安の表情を取り去ることはなかった。


「マスタング大佐」
 聴き慣れた声が中央司令部のまっすぐな廊下に響き、ロイは背後を振り返った。
 白い封筒を小脇に抱えて立っている蒼い軍服に身を包んだ凛とした女性に、ロイはしっかりと敬礼をする。
「ホークアイ中尉。ご苦労様です」
「大佐……」
 それを目にしたホークアイの表情に、影が落ちる。ロイはその意味するところを感じながら、それでもホークアイに進言した。
「大佐ではありません。もう、一兵卒ですから」
「やめてください、そのような…」
 ホークアイは弱々しく首を振った。
 しかし上官に対する姿勢を崩そうとはしないロイをみて、眼をそっと伏せた。
 確かに戸惑うことだろうと思う。今まで上官として仕えていた者が、突然下官になりさがってしまったのだから。
 しかし世界の半分を失ったロイにとって、彼女達の上官でありつづけることは無理な注文だった。この狭い世界で何をみて何を守れるというのか。
 ホークアイは納得とは程遠い表情のまま、それでも責務はまっとうするべく手にした白い封筒をロイに差し出した。
「北方行きの確認書です。目を通す必要もないものでしょうが、一応」
 その真白い封筒を受け取る。白さがぼやけて不意に冬の雪を思わせる。これから赴くことになる北の雪の白さはこの色とどちらが白いのだろう。
「……北は、寒さが厳しいと聞いています。どうぞ、ご自愛なさってください」
 ホークアイがようやっと搾り出した声でそう言った。そのままロイと目を合わせることなく踵を返した。
 廊下をまっすぐ遠ざかっていく背中を眺めた。その蒼もぼんやりとかすむ。
 ホークアイは振り返ることはないと感じた。そしてその通り、そのかすんだ背中だけをみせて、先の廊下を折れてその姿を消した。
 ロイはその場にゆっくりと立ち尽くした。

 間違っているのだろうか。
 半分になってしまったこの狭い世界で、しかしかろうじて見えているその世界すら間違っているものなのか。
 しかし自分はこれ以外選べなかった。選択肢はあった、けれど他を選ぶことは許されないことだったのだ。
 今も、そしてあの闇に紛れて決意を果たしに行ったあの夜も。
 お前はきっと、馬鹿なことはするなと諌めただろうと思う。

 けれど、なあ、ヒューズ。私は間違っていただろうか。

 ぽっかりと開いた窓から、そっと北の彼方に視線を這わせた。





(05/8/27)