Good morning, my dear.


 隣で未だ眠りこけているのを起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
 そうしてヒューズはひとつ伸びをしてから、猫のようにシーツに包まるその姿を眺めると目元を和ませる。シーツの端からのぞく黒い髪がぴんと跳ねていて、まるで耳のようだ。
 そっとその髪に指を絡ませる。もぞ、と猫が身じろいだ。
 すやすやと寝息をたてる姿に唇をひとつ落としてキッチンへ向かう。
 セントラルの市街地の一角に建つアパートメント。セミダブルのベッドが置かれた寝室と、小さなキッチン、慎ましやかなダイニング。いささかこじんまりとした感が否めないが、男同士で二人ばかりで暮らす分には充分だ。
 キッチンにつくと、ケトルに水を汲んで火にかける。それが沸くまでに水で顔を洗い、戸棚の中を確認する。昨日のうちに買っておいたべーグルが紙袋にいくつか入っていた。今日はべーグルサンドにしよう、ときめる。
 お湯が沸くとそれを使って髭をあたり、その間にもう一度沸かしたものでコーヒーを入れる。一息ついたところで、さて、と先ほどのベーグルをみっつほどとりだした。
 まだ、寝室の住人が起き上がってくる気配はしない。
 ベーグルをナイフで縦に切りわける。水気を切ったレタスを適当な大きさにちぎり、切り口へならべた。暖めたフライパンにベーコンを放り入れる。じゅうっと音がして香ばしい匂いがたつ。たまごをみっつ、そこへ割りいれた。
 ベーコンの焼ける匂いが寝室に届いた頃にようやく、もぞもぞとシーツから這い出してくる音が聞こえた。そのまま匂いにつられたようにキッチンへ顔を出したのを笑顔で迎えてやる。
「おはようさん、ロイ」
「……ああ」
「顔、洗ってこいよ」
「む……」
 むっつりとした表情でまだ目は覚めきっていない。そんなロイをバスルームの洗面台へと追い立てて、フライパンのたまごとベーコンを三等分にする。火を止めるとそれをレタスの上にのせ、切り分けたベーグルのもう半分を上からかぶせた。
 ベーグルサンドがみっつできあがり、皿にのせダイニングへと持っていく。コーヒーを、今度はふたつ入れた。
 なんとか目の開いたロイがバスルームから戻ってくるのを待って、二人で食卓についた。
「目、醒めたか?」
「ああ、」
「おはよう?」
「ああ…おはよう、ヒューズ」
 素直にそう答えるのは、まだ完全に頭が起きていない証拠だ。にんまりと笑ってヒューズは、それを指摘することはせず、飲めよ、とロイにコーヒーを勧めてやった。 「ちゃんと寝たのか、」
「寝たさ、三時間は」
「なんだ、まだあのあと起きてたのか」
 昨日の晩、身体に障るからほどほどにしろ、と保護者よろしく声をかけてヒューズがベッドに入ったのは、時計の針が真上から少し傾いた頃だった。その後ロイもすぐにもぐりこんできたのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「終わらないのか?」
「いや……筆が乗ってきたから、置くのが惜しかったんだ」
 ロイはベーグルサンドに手を伸ばし、端からかぶりつく。
 国家錬金術師というものは軍から様々な特権が約束されていたが、ただのうのうとその恩恵を与るだけというわけにはいかない。
 年に一度の査定には、その一年間でのそれぞれの研究成果や、更なる錬金術の精進の成果を軍に報告しなければならない。その内容如何によってはその資格を剥奪される可能性もある。
 軍の佐官についているロイも例外ではない。毎年この時期は通常の仕事の他に査定のための論文をあげなければならず、夜遅くまで筆を走らせているのだ。
 ヒューズはその様子を、ロイが国家錬金術師の資格を会得した士官学校の時分から傍で目にしていた。この時期のロイにはゆっくりできる時間というものはほとんどない。空いた時間は惜しいと、絶えず筆を握っている。
 それでも時間は足りないくらいだから、睡眠時間を削る。普段もよく遅くまで本を捲っていたりして就寝時間の遅いロイだが、この時期には特に顕著だ。本人曰く、睡眠は最低限とればいい、自分は少ない睡眠時間でも充分に事足りるのだ、ということらしい。
 何度そうは言われても、本当にそれで睡眠は足りているか、身体は辛くないのか、と思ってしまうのはヒューズの世話焼きな性分のためなのだが。
 もちろん、それだけではなく純粋にロイを心配する気持ちもあるからだ。
 ヒューズは自分もかぶりついたベーグルサンドをひとつ胃に収めたところで、最後の一口を咀嚼しているロイに訊ねた。
「もうひとつ、食べるか?」
「んむ……食べる」
 もごもごと、あごを動かしながら答えるロイの口元にはパン屑がついている。それに指を伸ばして摘み取ってやる。そのまま自分の口に持っていくと、ロイは何か言いたそうに眉を顰めた。けれどそれ以上口も開いてこなかったので、その視線には気付かない振りをしてやった。
 残りのひとつの乗った皿をロイの方に押しやって、コーヒーの残りを飲み干す。カップを手に席を立った。
「それ食ったら急いで支度しないと、遅れるぞ」
「ああ、わかっている」
 もうひとつくらい作っておけばよかったかな、という考えがちらりと頭をかすめる。けれど、ふたつ目を征服すべく大きな口をあけてベーグルに齧りついているロイを見て、まあ腹が持たなければ途中で適当に調達すればいいか、と思う。
 ヒューズは寝室へ戻ると、着慣れた青い軍服を取り出して着込んだ。オーバースカートもきちんと取り付け、ブーツを履く。撫で付けた髪と身だしなみを鏡でチェックすると、再びダイニングへ顔を出した。その前に、クロゼットから前日ヒューズがきちんとしまってやった一回りばかりサイズの小さい軍服を、着替えやすいようにベッドの上に置いてやるのを忘れずに。
 ふたつ目も胃に収め、コーヒーを流し込んでいるロイに声をかけた。
「じゃ、俺は先に行くぞー。遅れんなよ」
「わかっていると言っているだろう、さっさと行け」
「はいはいっと。じゃあな、鍵、ちゃんと閉めていけよ」
 そうしっかりと言い残して、ヒューズは玄関へと向かった。まるっきりの子供扱いに不満そうなため息を、背中に受けながら。
 ヒューズは思わず笑いを噛み殺した。





 隣に眠るその髪をそっと撫ぜると、邪険に振り払われた。
「起きてたのか、」
 シーツを手繰り寄せ、丸まった背中を向けられた。その背中からは不機嫌な空気が伝わってくる。
「何怒ってるんだよ」
「…………」
「なあ、ロイってば」
「うるさい」
 一刀で切り捨てられる。釈然としない。怒らせた理由があることは、ヒューズも承知しているけれども。
「なあ、ロイー」
 完全に機嫌を損ねてしまっている黒猫の耳をひっぱって、食い下がる。しつこくもう一度名前を呼べば、不機嫌な顔を隠しはしないが、それでも振り返った。
「うるさい!お前はなんでそう、強引なんだ、こちらの都合も考えないで、」
「そういうなよ、途中からは乗り気だったじゃないか」
「誰がだ!」
 ロイが、と思うが言っても火に油なので黙っておいた。
 いつまでたっても机に噛り付いて離れそうにないロイを、半ば無理やりベッドに引っ張り込んだのは時計の針が真上から少し傾いた頃。
 抵抗するロイを押さえつけ、身体を蕩かせてしまえばこっちのもの、と始めは強引な手管を使ったのは否めない。が、ロイだって結局途中からは積極的に求めてきて、気持ちいい思いをしたのだろうから、結果オーライというやつだと思っていた。
 確かに、今は国家錬金術師の査定の時期で、ロイは論文を仕上げなければならない状況にあるところを無理やり、というのはヒューズに非があるが。それでも、
「……折角久しぶりにこっちに来れたんだ、いいだろう、今日くらいは」
 甘えを含ませた声でそう言うと、ロイは口をつぐんだ。
 ロイがセントラルからこのイーストの司令部に異動になってから、しばらくたった。イーストシティにある物がなく殺風景なばかりのこの部屋も、もうずいぶんロイに馴染んでいる。
 今では、中央と東方、なかなか頻繁に会うことも叶わない。
「……そうは言っても、こちらの都合も考えてくれ」
 仕方なく折れて、怒りを和らげ殊勝な様子のロイにヒューズはほっと口元を緩める。
「すまなかった。……ああ、朝食の支度は俺がするぜ」
「それくらいは当然だ」
「かしこまりました、大佐殿。何がいい?」
 一変して不遜な態度のロイに、笑いをこらえながら訊ねた。
「そうだな……ベーグルを買ってあったな、たしか」
「じゃあベーグルサンドだな」
 ヒューズは了解、とベッドから這い出してキッチンに向かった。

 見上げてきたその唇に、キスをひとつ落として。





(05/10/05)