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 忘れかけていた煙草が出てきた。
 ジャン・ハボック少尉は銜え煙草を上下に動かしながら、手の中に納まった箱を玩んだ。緑と赤を基調としたそのパッケージは、ハボックが普段吸っているものとは違う銘柄のものだ。
 ここ、イーストシティの東方司令部に数年勤務したハボックは、来週の頭に上司と共にセントラル中央司令部へと異動になる。いや、正確に言えば異動になったのは上司で、ハボックは上司の補佐役の一人として引っ張られて行くだけなのだが。
 しかし「付いて来い」ときっぱり言われれば否と言えるはずがない、その言葉を言ったのが彼であるのなら。ハボックのその上司は、雨の日には少し頼りなかったりもするのだが、ハボックに内心でこの人にならどこへだって付いて行こうと思わせた人物だ。彼には大きな信頼を寄せていた。
 ただ先日、念願のガールフレンドがこのイーストシティでできたハボックとしては、急なセントラルへの異動は痛いものだった。もちろん、それを理由に異動を許してもらうつもりはさらさらなかったが、そのことを言うと彼はあっさりと「別れろ」なんて言葉を出してくる。あれは、人の不幸を楽しんでいる。なんだか、世の中の理不尽さを感じた。
 ともかく、彼女とはなんとか遠距離恋愛を頑張る心積もりで、司令部にある私物の整理をしていたのだった。ハボックに与えられていたデスクは、決して整理上手とは言えない所為で細々とした物であふれていた。几帳面を通り越して神経質なファルマン准尉からは、日ごろから片付けていればそんな大変なことにはならないので不思議だ、などと言われたが殆ど物のない准尉の机の方がハボックには不思議でならない。
 そんなことを思いながら中央へ持っていくものと処分するもの、それぞれに分けていた中で、デスクの隅に追いやられていたそれを見つけた。
 そうか、ずっとここに放ってあったのか、と今となってはただの煙草とは違う、特別な意味を持ってしまったそれを眺める。眺めながら数ヶ月前の、この煙草にまつわるささやかな思い出を呼び起こした。

「お、丁度良いところにいた」
 背中に投げかけられた言葉に、ハボックは振り向く。聞き覚えのある声だった。振り向けばその通りの姿。「よっ」と飄々と片手を上げた、階級が上に当たるその人物に、ハボックは親しさも表した敬礼をしてみせた。
「お久しぶりっス、ヒューズ中佐。こっち来てたんスか」
「仕事で近くに来たからな、ロイの野郎の顔も見るついでに寄ったわけよ」
 佐官についている者にしては気さくな様子のヒューズ中佐は、ハボックの上司の親友だった。その所為か顔を合わせる機会も多く、こうして軽く会話も交すことができる。彼が無類の家族好きで、愛妻と愛娘のことを誰彼構わずに自慢する為もあるかもしれないが。
「大佐なら、執務室にいると思いますよ」
「ああ、さっき会って来た」
「あ、そうなんスか」
 てっきり自分に声をかけてきたのは大佐の居場所を尋ねるためだと思っていたので、拍子抜けした。それならば、「丁度良いところに」というのはどういうことか。
「俺に、なんか用っスか?」
 中佐に個人的に声をかけられる理由が思いつかずに訊くと、中佐はポケットから緑の箱を取り出してハボックの前に突き出した。
「これやるよ。いやー意外と吸うやつに会わなくってよ」
 それは見ればすぐにわかる、煙草の箱だった。ハボックの愛煙している銘柄とは違ったが、一般的なもので良く目にする。
 ハボックは自他共に認める愛煙家で、隙があれば煙草を銜えていないと落ち着かないくらいだ。しかし近頃は、煙草は身体によくないので吸うべきではないなどと声高に叫ぶ者も増え、喫煙家には過ごし難い世の中になったとしみじみ思う。
 そもそも軍内のハボックの周りには、お堅い女補佐官やら、お子様染みた技術専門やら、訊けば煙草が及ぼす害を事細かに語ってくれるだろう知識馬鹿やらで喫煙者は少ない。唯一ブレダが吸うが、それだって時たまハボックから貰い煙草をするくらいで、ハボックほどのヘビースモーカーではなかった。
 そして大佐もその友である彼も、吸っている姿を見たことがなかったので、彼らとおなじく吸わないものだと思っていた。なので、中佐が差し出したその煙草の箱をハボックは不思議に思いながら見つめた。
「どうしたんスか、これ。中佐って吸ってましたっけ?」
「いや、前は吸ってたこともあったけどな、結婚してからはやめたんだ。すぐにエリシアちゃんも生まれたし、可愛い可愛いエリシアちゃんに煙草の煙は毒だろ?」
「えっと……じゃあ、これは?」
 そのまま家族自慢に突入しそうな勢いを慌ててさえぎる。中佐の家族自慢は、始まるとひたすら長い。
「ああ、そうそう。思わず買っちまったんだけどな、買ってからやっぱり思いなおして。一度吸ってまた喫煙の癖が戻ったらマズイからなー。捨てるのももったいないんで誰かにやれないかと思ってたところだったんだ」
 そこでハボックを見つけたのだと、中佐は説明した。
「思わずって…なんかあったんスか」
「あーいや、最近仕事が立て込んでて、少し苛々してたっつーか……ロイも、相変わらず無茶が多いし…」
 最後の方はため息交じりに零れ出た様子で、聞かせるつもりはない独り言らしかった。しかしハボックはそれを聞きとめてしまった。
 確かに、大佐は部下の自分に言わせても、多少、危なっかしいところがある。
 軍内で口にすることを憚られるような、大きな野望を実現するため、危ない橋を渡ることも多いようだ。ハボックが彼について行こうと決めたのは、そんな大きな野望を抱き、そしてそれを実際に実現してしまいそうな意志力を感じて、男として彼に惚れたからだった。
 しかし多分に、彼は他人の身を案じることはあっても自分の身となると今ひとつ気遣うことをしない。野望を達成するまでは何事もなくいるべきであるのに、どこか意識が抜け落ちているようだった。
 そんな彼を親友である中佐が心配するのも頷ける。中佐はいつも朗らかで怒りや苛立ちといった感情を表すことはあまりない。そうしたいつもと変わりない様子でも、そんな中佐がやめていた煙草に手が伸びたくらいだから、仕事の所為だけではなく大佐と直接何かあったのかもしれない。もしかすると、そのことで口論でもやらかしてきたばかりなのかもしれなかった。
 そうすると執務室の大佐は今、さぞかし機嫌が悪いことだろう。中佐と違って周りには不機嫌さを隠そうとしない人だ。寧ろ部下である自分などは、八つ当たりをされる危険もある。
 ハボックは、触らぬ神に祟りなし、とこっそり胸中で呟いた。
「……銘柄とか、気にする方だったらいいけど。もし吸うんだったらもったいねえからもらってやってくれないか?」
 そんなことをつらつらと考えていたハボックに、中佐は遠慮がちに頭を掻いた。
「あ、いや、もらうっス。煙草代も馬鹿にならないもんで、もらえるんなら喜んで」
 慌てて言って、その箱を中佐の手から受け取った。「ありがとうございます」と箱を揺らして、ポケットに突っ込む。
「こっちこそ。じゃあな、お勤めご苦労さん」
 そう言って笑顔で手を振り見せた背中を、ハボックは再び軽い敬礼で送った。

 その背中を今は感傷的に思い出す。
 結局その後、自分のデスクに放ったまま忘れてしまったその煙草は、今となってはヒューズ『准将』の形見のようなものになってしまった。
 それを手にしたまま、ハボックは逡巡する。こんなものを自分が持っていていいのだろうか。家族や、准将に近しい人に渡すべきなのだろうか。
 とはいっても、形見にしても弱いものだ。准将の愛用の品というならともかく、これが准将のものだったのを知っているのは恐らく自分だけというようなものだ。だからといって自分が取っておくのにも重く、吸うなりしてしまうにも更に重かった。
 どうしたものか、と手の中のそれをくるくると回していると、後ろから声がかかった。
「どうしたんだ」
 手元を覗き込むようにしてきたのは、ハボックの上司、マスタング大佐だった。
「あ、大佐。お疲れ様っス」
 来週の異動に向けて引継ぎの書類作成やら、執務室の整理やらでここ数日忙しく動き回っている大佐は、「まったくだ」と頷いた。
「そういうハボック、お前はのん気に一服中、か?」
 そしてハボックの手元を見咎めて、眉間に皺を寄せた。本当に忙しいらしく、表情には疲労の色が濃い。
「あ、いや、これは違うっスよ、整理してたら出てきただけで…」
「ん?ああ、そうか、お前のいつも吸っているのとは違うな」
「あれ、わかるんスか」
 非喫煙者である大佐が銘柄に詳しいとは思えなかったので、自分の吸っているものを知っているのは意外だった。ハボックは特に大佐にそれを教えたことはないし、パッケージを覚えられるほどそれを見られていたとも思えない。
「その煙草でないことはわかる。……そいつは、私も吸っていたからな」
「え、」
 これもまた、意外だった。思わず大佐の視線の先にある、手の中の箱をまじまじと見つめてしまう。
「大佐、吸ってたんスか。意外っスね」
 ヒューズ中佐から同じように聞いたときよりも、虚を衝かれた思いだ。
 中佐の場合は吸う姿が想像できたが、大佐のその姿はなんとなく、思い浮かばない。
「……戦地で、支給品として配られていたからな」
 その言葉で納得する。戦地では前線の兵士たちに、嗜好品の煙草は士気に関わるものとして、軍から配られる。そう多く行渡るわけではないが、それでも作戦中の兵士たちにとっては数少ない楽しみとなるはずだ。市販品のこの煙草は軍が買い上げていたのだろう。
「まあ、私は特に好んでは吸わなかったが。傍に吸う奴がいたからな…付き合いも兼ねて、だ」
 ハボックはそのとき、あ、と気付いてしまった。
 確か、中佐と大佐は、士官学校の同期で、卒業後丁度内乱状態にあったイシュヴァールへ、共に従軍したと。そう、聞いていた。
 手の中の煙草は、この人に繋がっている。
「大佐、」
 そのまま大佐へと差し出す。
「これ、あげますよ。俺これ吸わないし、もったいないんで」
「なんだ?私ももう今は吸わないが」
「いいから、いいから。たまに一本吸うくらいは、いいじゃないっスか。うまいっスよ」
 無理やり手の中に押し込めた。大佐は迷惑そうな顔をしながらも、それを拒まない。大佐の箱を見ていた目には懐かしさと他の色が混じり合っていたから、きっとこれをつき返されることはない、とハボックは思っていた。それにこれは大佐の元にあるべきものだ。
「吸いますか?」
 ジッポを取り出してみせる。
 そんなハボックを見て、手の中の箱を見て、大佐は一瞬迷っていた。しかし逡巡の後、結局「もらおう」と煙草の箱を開けた。一本取り出して手のひらで口を覆うように銜え、ハボックのつけた火に近づける。
 大佐は火のついたそれを銜えたまま、一息吸い込み、吸い口を離すとふうっと吐き出した。煙があたりに漂う。
 煙草を口にするその大佐の姿は、ハボックの思ったよりは似合い、様になっている。
 視線を下方に向けた大佐の瞳には、また一瞬、痛みに似た懐かしさの色が走ったようだった。
 すっと手を伸ばして、大佐はまだ充分に長い火のついた煙草をハボックのデスクの上の灰皿に、ぎゅ、と押し付けた。
「荷物はさっさとまとめておけ、準備が間に合わないなら置いていくぞ」
「イエッ、サー」
 くるりと背中を見せた大佐に、軽く敬礼もつける。
 大佐が手にしたままのその煙草の箱は、ヒューズ中佐のものだった、ということを言いそびれているのに気付いた。
 言うべきか一瞬迷って、けれどやめておくことにした。





(06/6/28)