優しきチェリストの彼 吹く風の冷たさも本格的になってきた、十一月の始め。だんだんと夕方以降の外歩きは身に染みるようになる。そろそろちゃんとしたコートを引っ張り出してきて来ないといけない、そう思いながら薄手のジャケットの襟元をぎゅっと合わせた。 背中のチェロケースをゆすり上げ、通いなれた道を歩いていく。 木曜日の七時前。今日はフジミの練習日だ。毎週火曜、木曜と土曜が定期練習日の市民フィルは、健人が別に籍を置いている大学の学生オケとは違って技術的には未熟なアマチュアの集まり、つまり素人の趣味に毛が生えたサークルのようなものだったが、真に音楽を愛する人たちばかりで居心地がいい場所だった。不意なことで誘われ入団してから二年半ほど、フジミはすっかり健人の生活の一部となっている。 ただ、フジミがアマチュアの集まりだと言っても、最近はその一言では括れなくなっていた。昨年、猫に小判が与えられたかのごとくこの素人楽団に現れた指揮者はなんの誇張もなく天才指揮者と呼べる人物であったし、元からアマチュア楽団に納まっていることが不思議ではあったコン・マスは先日、日コン三位入賞と言う快挙を成し遂げている。 そして健人と共にフジミのチェロパートを勤める団員は、フジミへは後から入ってきたために健人のことを「先輩」等と呼んで憚らないが、その実学生の健人が敵うはずもない、プロであるM響現役団員の人たちだった。それでもフジミにいる時にはあくまで「フジミの団員」であり、他のパートにも数名いるM響さん同様、それを笠に着るようなことは決してない。 健人を「先輩」と呼ぶのにはからかい半分もあるのだろう、そのチェリストは「まあ、確かに技術だけ見れば素人だろうさ、だがM響なんかとは比べられない、いいものをもらってるよ、フジミからは」と言っていつものにやりとした、けれども嬉しそうな顔で笑った。健人はその笑顔を見て、彼が自分と同じようにフジミを好きでいてくれたことに胸の奥がじんわりと暖かくなるような、そんな嬉しさを感じた。 現役プロと椅子を並べて演奏できるなんて、日々修行中の学生にとってこんな貴重なことはない。健人はフジミでそんな思いがけない幸せを噛み締めている。 しかし、最近の自分がそれだけでなく、それ以上の感情を持ちながらフジミの練習に臨んでいることに、健人は気付いてしまった。 市民ホールの明かりが見える。富士見駅から歩いて十分ほど、立地はいいけれどオケの練習に使うにはお世辞にも環境がいいとは言えない。そんなフジミの練習場。 階段を上がって会議室の扉を開ける。集まっている団員の和やかなおしゃべりの声が溢れた。 「ちゃーっす、」 室内に通る声で一声挨拶すると、それぞれおしゃべりの合間にこちらに顔を向け、笑顔で返してくれる。いつもと変わらないフジミの雰囲気。 定位置であるチェロ席へと体を向けると、そこから思いがけない声が飛んできた。 「遅えぞ、先輩、」 不意のことに、思わず胸の辺りがドキリと跳ねる。 「あれ…、飯田さん」 空いている健人の席の隣に座りチェロを抱えている人物を視界に認め、名前を漏らす。てっきり彼は今日、フジミには来ないものと思っていた。 「なんだ、その気の抜けた声は。俺がいちゃ悪いのか?」 寄っていくと、手にした弓でぐいと突かれて、慌てて答える。 「いや、そうじゃないっすけど、今週M響定期じゃなかったっすか。Cプロ、飯田さん出るんすよね」 「昨日から練習に入ってるな」 「いんすか、こっち来てて」 「いいんだよ、あっちは夕方までだ」 「でも明日も朝は早いんじゃ、」 「ああ、ノベは帰ったけどな。そんなに俺がいたら都合悪いのか、先輩は」 「いっ、いや、だからそんなことないっすって!」 ただ、心構えをしていなかった、今日は。この人の隣でチェロを弾ける日だと思っていなかったので。 この人に会える日だと、思っていなかったので。 動揺してしまいそうになる気持ちを何とか落ち着かせる。そんな健人を、飯田は探るような目つきで眺めてきた。その視線に更に気持ちが揺らされそうになるのを何とか押しとどめて、いつもの「明るく調子よく楽しいイガちゃん」を取り繕う。 「そのですね、今夜はきっと一人身だから寂しいなあ〜なんて、思ってたもんすから」 へらへらと調子よく言うと、飯田もいつものように冗談で合わせてくる。 「なんだ、先輩、そんなに寂しかったのか?だったら今日はたっぷり可愛がってやるぜ、覚悟しとけよ」 下品な口調で笑った飯田に、健人は今日こういう冗談を振ってしまったのは失敗だったかもしれない、と思った。 ただの冗談だ、だからこそ今の健人にとっては重いものが胸に溜まる。以前であればこんなことはちっともなく、お互い茶化しあって馬鹿げた冗談と笑い飛ばしていたのに。 「おっと、そうだこれ、ほら」 そう言って飯田が紙の束を健人の目の前に突き出した。反射で受け取って、二つに折られたそれを広げる。 「『アルジョ』っすか」 「来週から合わせるから、見てこいだとよ」 「うっ、俺学校の課題曲もやばいんすよね〜」 「ちゃんとやってこいよ」 そう言って飯田はまた弓の先で健人を突く。 「うう、はいはい」 フジミでは後輩だが、しかし実態は厳しい先輩の言葉に肩を落としつつ、健人は手にした「アルルの女」の楽譜を鞄にしっかりとしまいこんだ。 「そういえば、来月のAプロ、エルガーっすよね。俺、聴きに行きたいなあ」 「チェロ協奏曲か?」 「飯田さんも演るんすか?」 「ああ、でるぜ。残念ながらソリストじゃないけどな」 がっかりだ、と肩をすくめるポーズをしてみせた飯田に、健人は笑う。 「飯田さんのソロだったら、そりゃ最高っすけど」 嘘偽りのない言葉だ。 惚れているのだ。彼のチェロにも、彼自身にも、心底。 いつからだったのか、それは健人自身にもわからない。気付いたら、自分の気持ちはすっかりこの人に落ちていた。 M響メンバーがフジミにやってきてから、それまでより更にフジミに通うことが楽しくなった。それは今までたった一人だったチェロパートに、歴戦のM響団員達が入ってきてくれたからだと初めは思った。しばらくたつと、そのチェロ弾きの洒脱な人柄に惹かれ、一緒にふざけあえる楽しさが加わった。その手から紡がれるチェロの音色は繊細で、それに密かに心打たれた。 火、木、土の週三日。気付けばなによりも心待ちにしていた。会って話をして、隣で同じようにチェロを弾いて。それだけのことで何故かたまらなく嬉しくて。 そんな日を過ごすうちに、あるときただその顔を見られるだけで幸せである自分に気付いた。そのときに、やっと。 まずい、と思った。 これ以上深みにはまってしまうのはいけない。そう直感で思った。自分にとっても、彼にとっても、こんな想いは良い方向へは向かわない。 フジミの練習を終え、帰路に着く。自分のねぐらである小さなアパートに帰り着いて、ようやくほっ、と息をついた。広くはない部屋の隅の定位置にチェロケースを下ろして、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。蓋をひねってそのまま口をつけてから、元に戻した。 今日は少し参ったな、と先ほどまでの時間を思った。 今日は会えないと思っていた。定期の練習があることは知っていたし、そういう日にはフジミには来ないことが多かった。M響さんは忙しい、それでも都合のつく日はきちんと顔を出してくれているのだから、フジミにとってはそれだけでも充分にありがたいことだ。 フジミで今日、飯田とした会話ややりとりをひとつひとつ思いおこす。変に思われそうなことは言わなかっただろうか。チェロを引く手元を盗み見た視線が、必要以上に熱心ではなかっただろうか。戯れで髪をかき回されて、不自然に反応してしまわなかっただろうか。 自分の感情に気付いてからと言うもの、飯田に会える日は必ず、心構えをするようにしていた。しかし、今日は会えないと思っていたので気を抜いてしまっていた。充分な心構えなしで、気付かれるようなヘマは、しなかったろうか。 健人はこの想いが成就するとは思っていない。同じ男相手だからと言うこともある。ただ、それだけなら身近にゲイのカップルがいるのも知っているし、可能性がないとは言い切れない。駄目で元々、想いをぶつけてもよかった。 けれども、飯田には家族があった。 奥さんと、子供。自分の勝手な感情で迷惑をかけるわけにはいかなかった。絶対に。 鞄から今日受け取ったばかりの楽譜を取り出し、広げた。おたまじゃくしを目で追いながら、記憶にある旋律をなぞっていく。本当は実際に音が出せればいいが、この時間にこのアパートでそんなことをすれば苦情が来るのはわかりきったことなのでチェロは取り出せない。 学校で空いた時間に練習室へ行こう、と思う。そういえば今度テストのある課題曲もまだ充分に練習できていない。 深い息が漏れる。今、楽譜をさらった時も健人の頭の中に流れたのは、飯田のチェロの音だった。 本当はもうなにもかもすっかり手遅れのことのように思えた。このチェロの音を耳から追い出すのはとても、難しい。 その日はあまりよく眠れなかった。 「知ってるか?声楽科の…学祭公演でフェデリコやった、そう、そいつ。そいつが振られたとかで朝まで飲みに付き合わされたんだよ…もう、死ぬだの死なないだの、かなり惚れ込んでたみたいだからな、相当キてたぜ。 ……お。五十嵐だ。おーい、イガ!」 呼ばれて足を止めた。キャンパス内、校舎の入り口近くで立ち話をしていたらしい知り合いを認めて、応えて手を上げながらそちらへ寄る。朝からすっきりしない頭を抱えていたので、欠伸が漏れた。 「はよ、」 「なんだよイガ、眠そうだな。お前も飲みか?」 「違うよ、譜読みしてたら寝るのが遅くなって」 「なんだ、珍しいな」 「どういう意味だあ?」 「はは、冗談だって、課題曲どうだ?」 「ん、今から練習しようと思ってんだ。練習室どっか空いてっかな」 「ああ、俺さっき使ってたとこ、今いけば空いてるかも」 「どこ?」 「506号」 「さんきゅ」 情報を得て、早足で練習室に向かう。 練習室の争奪戦は激しい。テストが近くなれば余計だ。貴重な空き練習室を逃さないように校舎を急いだ。 教えてもらった教室は無事空いていて、健人はそこへ落ち着く。チェロをケースから取り出し、調弦にかかった。一通り合わせ終えて、よし、と楽譜を取り出す。 (課題曲……と、フジミのもやっとかなきゃな) フジミ、と思うと同時に浮かんだ顔を、慌てて意識から追いやる。今は練習だ。しかし、チェロを弾くということは最早健人にとっては飯田のことを想うに等しくなっていた。自分の音を鳴らすと同時に、好きな飯田の音を追いかけている。これではいけない、と頭ではわかっているが心はどうにも言うことを聞いてくれない。 更に、頭に流れる理想の飯田のその音と、実際の自分の出す音の間の大きな壁を感じて、愕然とした思いを抱く。それはそのまま、飯田と自分の距離であるかのように思えた。 苦心惨憺して、何とか練習になったかと思える程度に課題曲をさらった時には、もうぐったりと疲れていた。フジミの曲に更に手をつける気にはなれず、時間も予定より過ぎていたのでそのまま練習室を後にした。 週が開けて火曜日。フジミに向かう道すがら、今日こそはとよし、と気を引き締める。会って話せるのは嬉しい。この前のような不意打ちを食らわなければ。そうしてその週のフジミの練習日を変わらず『明るいイガちゃん』で二日過ごし、週の終わりの土曜日、同じく飯田に会うための心構えをして市民センターへ向かった。 しかし、足を踏み入れた練習場には目当ての姿は見当たらなかった。だけでなく、今日はコンダクターの桐ノ院とコン・マスの守村も休みであるらしかった。 拍子抜けな気分にさせられながら、主要メンバーの欠けた心なしか寂しい雰囲気のフジミの練習を終える。フジミの世話役、いつもニコニコ顔の石田ニコちゃんにそれとなく聞いたところによると、コンとコン・マスがそろって休んだのは、仕事の都合、とのことだった。 あの二人が音楽面だけじゃなく、男同士でありながら私生活においてもパートナーであるという秘密を知っている健人は、そろって休んだことに多少の邪推をしてしまったのだが、心の中でこっそりと二人に謝る。 男同士のカップルという二人に抱く印象は、嫌悪感などではなく、人のことながら応援したいと思わせるものだった。お互い真剣であることは外からでもわかるし、何より男同士と言うことを差し引いても、とてもお似合いだったので。 しかしそれと同時に今の健人が抱いてしまうのは、どうしようもない羨望感、だった。 音楽面でもお互いを尊重しあえる仲であり、プライベートになれば唯一無二の存在。理想と言えるその関係を自分と飯田の間に当ててみるが、そんなこと叶うはずもない、と自分自身がよく知っている。 チェロケースが重い。夜道を一人で歩きながら止まらない考えをめぐらせる。プライベートでは叶うはずはなくとも音楽家としてなら、そうした関係を望めるかと言えば、今の下降線の健人の心境ではいつかはと希望を抱くことさえできなかった。 (俺って、こんなにネガティブな奴だったっけ、) アパートの暗い部屋に帰りつく。 明るい性格が取り柄と思っていた。しかし、こと飯田のことに関しては、気持ちは落ちる一方だった。 荷物を置き、そのままベッドに倒れこむ。 (月曜にまた練習室行って…空いてるといいけど) ここのところは課題曲にかかりきりで、フジミの曲はあまり手をつけていない。今週は飯田の隣にいながら、満足に曲を通すこともできなかった。 (情けない…) 手をつけている課題曲の方も満足のいく出来には程遠い。レッスン中講師からも、手厳しい言葉を何度も受けた。 苦しさのうちに付いたため息は、さらに胸のうちにゆっくりと溜まった。 火曜日。桐ノ院と守村はまた休みだった。そもそも休むことの珍しい二人なので、どうしたのだろうかと思っていると、チェロケースを揺らしながらやってきた飯田が情報を持ってきた。 「ホームコンサートっすか?」 「ああ、桐ノ院のご隠居さんの誕生日祝いってことでな、」 「うっわあ…」 すげえ聴きたかった、と心底の思いを漏らすと、飯田は笑った。 「間抜け顔、」 よだれたれてるぞ、という言葉に思わず慌てて口をおさえると、嘘だよ、と更ににやにやと笑われた。顔が少し熱くなる。 「でも守村さんと飯田さんもいるカルテットなんて、そんな贅沢な演奏、聞き逃したのはくやしいっすよ」 本当は、自分の知らないところでそんな事実のあったことに対する僭越な嫉妬と、自分では飯田とそんな風に演奏できることはない、という失望の気持ちが強かった。もちろん、同じチェロではカルテットを組めないのは元々であるけれども。 昨日はまた練習室にこもり、フジミの曲にも手をつけてはいたが、その実態は全く身の入らないものだった。そんな自分への嫌悪感もつのる。 「先輩、『アルル』ちゃんとやってっか?」 そんなときにその話題を出され、健人はどきりとする。 「あ、いや、課題曲の方がなかなか手ごわくてですねー…」 空笑いで返すと、飯田はふうん、と言って自分のチェロを取り出しにかかった。 その姿を見て、自分の惨めさに拍車がかかったように感じた。飯田は、チェロも満足に弾けやしない自分なんて好意すらもってくれないのかもしれない。そう考えると、更に惨めで情けなかった。 調弦を手早く終え、ポジションを取った飯田が言う。 「じゃあ、俺が特別に弾いてやっから、しっかり聴いとけ、先輩」 「えっ、あ、はいっ」 反射的に姿勢を正す。飯田の弓がチェロの上を滑った。冒頭から、チェロパートの音が紡がれていく。 その音を聴いた健人は、動けなくなっていた。 想い焦がれている音、それよりもさらに鮮明で、胸にしみこむ音。 目の奥に湧き上がる気配をなんとか押しとどめようとした。かろうじてこぼれることは免れたが、それでも視界がかすんだ。 好きだ、と思った。 こんなに好きでたまらない。それなのにどこにも行き場のないこの気持ちを、どうすればいいのかわからない。 「…イガ?」 手を止めた飯田が、息を詰めた健人の様子をうかがう。 気付かれちゃいけない、伝わっちゃいけない。 「いやあ、飯田さん流石のお手並みっすね!思わず聞き惚れちゃいましたよ」 笑顔で誤魔化してしまう。 「……お前、俺を誰だと思ってるんだ?」 飯田はそんな健人に合わせて言った。 そう、決して伝えちゃいけない。 練習が終わり会議室の椅子を片付ける。いつもそういうことを率先してやるコン・マスが休みなので代わりに先に帰った人の分も全て片付け、チェロをしまいこんだケースを背負う。まだ残っている人たちに挨拶をして、階段を下りた。 すると、市民センターの入り口に、もうとっくに帰ったと思っていた飯田が立っていた。健人が下りてきたのを認めると、銜えていた煙草を携帯灰皿にもみ消す。 「……どうしたんすか?」 「先輩の家はこっからちょっとだったよな」 「え、あ、はい、そっすけど」 「そこまで行く」 「え?」 「おら、行くぞ」 それ以上は説明する気がないらしく、促されて並んで歩いた。健人は突然のことに少し戸惑う。 しかししばらく歩くと、飯田はゆっくりと切り出した。何か、健人に話したいことがあるようだった。 「イガ、お前最近どうなんだ?」 「どうって…」 「まあ、課題とかいろいろ、大変だと思うけどよ」 ああ、ここ最近の練習不足のことを言われるのかな、と思った。確かに趣味のフジミとは言っても、皆音楽に対する姿勢は真剣だ。いい加減に参加していいってものじゃない。 「すいません、そっすよね、フジミもこんないい加減じゃ皆に迷惑っすよね」 「あーいや、そうじゃなくってよ」 飯田は困ったように頭を掻いた。 「なんか、悩んでることとか…あるならよ、俺も音楽面ならアドバイスぐらいはしてやれるし」 思ってもいない言葉に、健人は目を開いた。 「おい、なんだその俺が心配してやるのがさも意外と言いたそうな目は」 「いっいえ、そうじゃなくって」 「…お前、思ったことはすぐ口にしそうに見えて、実際そうじゃないからな」 ほろっと零れたような言葉。飯田はそのまま、前を向いて足を進める。健人は足を止めていた。飯田がそれに気付いて、振り向く。 「まあ、あんまり一人で溜め込むな。できることがあれば、言えよ」 ぽん、と手のひらが頭に置かれる。健人は沸きあがる気配と戦うのに精一杯で、何も言えなかった。 なんでこの人はこんなときにそんなことを言ってくれるんだろう。 苦しい、でも、それ以上の想いが健人を支配した。 「で、お前の家はどっちなんだ?」 分かれている夜道を指し示して、飯田が尋ねる。 「……こっちっす、」 そして連れ立って歩く。健人のアパートの前までの十分ほど、お互い口を開くことはなかった。 アパートの前まで来ると、飯田は手を上げた。 「じゃ、また明後日な」 「はい、お疲れさまっす、あの、」 「うん?」 「…ありがとうございました」 飯田は、ふっと笑みを漏らした。 「じゃな」 そのまま手を振り、背中のチェロケースを揺らして歩いていく。 その後姿に、改めて、想いが募ってしまう。 ああ、好きだ、と思う。 とりあえず、チェロを弾こう。彼の隣で演奏するのに恥ずかしくない音になるように。 そう思いながら健人は自分の部屋のドアを開けた。 (06/10/2) |