くずきり くずきりが食べたいナァ、と思った。 江戸の町は今年も残暑厳しく、未だ去らないじめっとした空気が鬱陶しい。 総悟は屯所の母屋、庭を一望できる部屋の畳の上にだらりとうつ伏していた。顔だけを庭へ向け、ぼうっと眺める。暑い日中の外回りから帰ってきたばかりだった。 まあまあの広さを持った中庭は、ここからはそれなりの眺めだ。自分にあてがわれている部屋ではない。ここ真選組において一番隊隊長という肩書きを持つ総悟にも専用の自室というものはあったが、その部屋からの眺めではこういかない。特権行使という言葉が頭に浮かんだ。 そしてこの部屋の主は相変わらずの銜え煙草のまま文机に向かい、なにやら書き物をしている。その視線は時折、疎ましそうにこちらに向けられた。総悟はいつものようにその視線には気付かないふりをする。 あいにくと風のあまりない日で、めいっぱい開け放たれた戸からも微風が吹き込む程度だ。それはじっとりとした不快感を消してくれない。夏の最中に比べれば多少和らいだのかもしれない、それでも刺すような光が庭に降り注いでいる。 総悟は頬に畳の目がぺとりと張りつくのを感じつつ、それなりに手の入った庭を視界に収めながらもう一度、今度ははっきりと、くずきりが食べたい、と思った。 黒い漆器に湛えた水が、浮かべた氷できんと冷えている。その中に沈められた半透明のそれを箸で掬いだし、別の器に注がれた蜜にたっぷりとつける。 蜜は黒蜜より白蜜がいい。黒蜜だとしつこすぎる。白蜜のあっさりとした甘さは口に入れたとたんに溶けて消えてしまうのが好い。むしろ蜜なんてなくても良いくらいなのだ。 つるりと口に入れてしまえば、そのままのどを通ってすとんと落ちる。冷たさがそこから身体に染み渡り、夏の空気に熱せられた体が徐々に冷えていく。それを感じてしまうと、あとはいくらでも口に入る。つるつるとどれだけ口に入れても、胃に落ちればそれはするりと溶けてしまう気がする。 去年の今頃、松平においしいところなのだと鍵良というくずきりを出す店に連れていってもらった。顔の濃さに似合わず淡白なものを食べるのだなあと感心した覚えがある。 同じくその場にいた土方は、出されたくずきり一杯の値段に辟易していた。松平は顔見知りだという店の女の子にくずきりそっちのけで絡みだし、近藤はその松平と一緒に大きな口をあけて笑っていた。 そのなかで、総悟は一人ひたすらくずきりを身体に収めることに専念していた。一杯目をつるりと飲み込んでしまうと松平の勧めに乗って二杯目をたのみ、それすら空になると更に三杯目にも手を出した。 一杯だけをゆっくりと口にしていた土方は、総悟のそのペースに顔をしかめていた。そんな後生大事そうに食べたって仕方ないのに、と総悟は思ったがそれを口には出さなかった。 それより総悟にとって、この不思議な食べ物を身体にすっかり収めてしまうことのほうが重要だった。味なんてものは実はよくわからなかったが、それでも冷えたそれが、身体にたまったじめっとしたものを追い払ってくれるような気がするのはありがたかった。 「くずきりが食べたいなァ」 「くずきりだあ?」 「そう、くずきり」 大方想像通りの反応を示した部屋の主、土方の方へと顔を向ける。土方は何を突然、という表情を浮かべていた。 総悟はその反応に満足して、言葉を続けた。 「鍵良のくずきりが食べたい」 「鍵良……ってああ、前に松平のおっさんに連れて行ってもらったところか?あんな高けえところ、いかねえぞ」 「わかってます、土方さんが連れて行ってくれるなんて期待、しちゃあいませんよ」 「なら、言うな」 土方は話は終わりだ、とばかりに総悟に背を向ける。その背中を捕まえてさらに言った。 「連れて行ってくれるなんて期待はしちゃいませんけどねィ、ほら、屯所の周りにはいっぱい生えてるでしょう?」 渋々という様子で、土方が再びこちらに向き直る。 「何がだ」 「葛。花をつけているじゃあないですか、それ、引っこ抜いてきてくずきりにしてくだせェ」 「できるか、阿呆!」 一喝されて終わった。 鍵良へ行ったとき、そのお店の女の子にくずきりは葛という植物の根からつくるのだと教えてもらった。屯所の周りにも生えているというので帰り際に眺めに行くと、そこには鮮やかな紅紫の花が咲いていた。あんなに淡白な食べ物ができるのに、ずいぶんとまがまがしい色の花を咲かせるのだな、と思った。 その花の色を思い出しながら、ちぇ、と口の中で呟いた。ごろりと寝返りをうって、拗ねたように丸まってみせる。 背中に呆れたようなため息がかかった。 「そんなに食いてえのなら、街に行って適当な茶見世で食ってくればいいだろうが」 「こんな暑い中、また外に出てけっていうんですかィ?」 「さっきは鍵良で食べたいって言ってたじゃねえか」 「鍵良で食べさせてくれるんだったら、出かけるのも悪かないってことでさァ」 「お前なあ…」 総悟の好き勝手な言いように、土方の眉間には皺が寄っていた。それを面白おかしく眺める。その視線に気付いたのか、土方はさらにその皺を深くした。 付き合いきれない、というように土方は背中をみせた。文机に向かって、今度はもうこっちを振り返りそうにもない。 一仕事して帰ってきたばかりの、暑さで参ってしまっている部下をいたわるくらいはしてくれてもいいものだ、と胸中で悪態をつく。 外に出たときに溜め込んだ夏の不快な空気は重く、未だ総悟の身体から離れない。 午前中は見回りに出ていた。平隊士を運転手に、てれてれとパトカーを回させる。普段なら見回りなんて、歩きなら体の良い散歩、車なら暇つぶしのドライブなのだか、今日は少し違った。 車の空調がすっかり壊れていたのだ。夏の車でクーラーが壊れているものほどやっかいなものはない。 始めのうちは窓を全開にして、吹き込む風でなんとかやり過ごしていたものの、それでも車内の温度は一定以上を保ち続け、結局それに耐えられなくなった。 橋のたもとに止めさせると、隊士には休憩だと言って車を降りた。 汗だくの身体に風を通しながら河川敷をぶらぶらと歩く。腰の刀が合わせて揺れる。 河原の風の気持ちよさに、つい長々と次の橋のたもとまで歩いてしまった。車を止めた場所からあまり離れすぎるのも良くないか、と引き返そうとする。そのとき。 こちらを見ている男がいた。今のご時世に腰には丁寧に両刀を下げていた。 幕府に反感を持つ浪人か、それすら確認することもできなかった。ともかく、男は真選組の隊服を着た総悟を見ると有無を言わさず斬りかかってきた。 総悟は一人でいた、だが相手もたった一人だった。 有無を言わさず斬った。 斬ってから、しまった、と思った。むやみやたらに斬ることを、とくにあの頭のお堅い副長殿は好まない。始末書を書くのも面倒くさい。 しかし斬ってしまったものは斬ってしまったので、総悟はいつまでたっても戻らない自分を探しに来た隊士に、車の無線で屯所と連絡をとるように告げた。 隊士が慌てて車へと走っていってから、血刀を引っさげたままだったことに気付いた。 懐紙で血をぬぐって刀を鞘に落とした。 今思うと、その鮮やかな血の色は、以前見たあの葛の花の色に似ていたのかもしれない。だから、こんなにもくずきりのことを思い出して食べたくなってしまったのだ、と。 昼前のその出来事を思い出して、そんな風に納得した。 のどの渇きをひどく感じる。 しかし土方は当てにならないし、外へ出て行くなんてもう論外だ。身体が重すぎて、今は転がった畳から起き上がるのさえ無理なような気がする。 書き物にいそしむ、少し丸まった背中に恨めしく視線を投げた。振り返る気配はまったく、ない。 総悟はことさらおおきくため息をつくと、ごろりと寝返りを打って、自分も相手に背中を向けた。瞼を閉じる。 空気は暑く、畳の目はべたべたと肌に張り付くし、身体は持ち上がらないくらいに重くて、くずきりが食べたいのに食べられない。最悪のコンディションだ。そんな状態で心地よい睡眠が取れるとは思わなかったが、総悟は不貞寝を決めこんだ。 瞼を閉じて、背中越しのさらさらと紙の上を筆が滑る音を聞いていた。 不快感をまといながら、それでも何とかうとうとできそうだ、と思い始めたとき。 筆の音がやんだかと思うと、がたんと机が鳴るのが聞こた。直後、総悟の頭に何か小さく硬いものが当たった。 「いてっ」 その正体を確かめるためにしぶしぶ瞼を上げる。放り投げられ総悟の頭に当たり、そのまま目の前まで転がり落ちてきたそれは、透明なフィルムに包まれた小さな飴玉だった。 それを摘み上げる。 「なんですかィ、これ」 「机ん中探したがそれしかなかった。とりあえずそれで我慢しろ」 愛想のない声が答える。 くずきりの代わり、ということらしい。 「こんな、甘いもんはいりませんよ」 べっこう色をしたそれはキラキラと光っている。その色は、砂糖を溶かして固めたこの菓子の甘ったるさを物語っていた。総悟が食べたいと願っていたくずきりの、あっさりとのどを通る冷たさとは、まったく遠い代物だ。 「別にいらねーんなら返せ」 しかし、貰ったものを返せと言われると途端に惜しくなる。 「……もらえるんなら、もらいます」 いつから机の中にしまいこんでいたのか、いくぶん溶け気味のそれからフィルムを引き剥がした。 ころりと口に含む。はちみつの味がした。 (あま…) その甘さに、顔をしかめる。けれど、思ったよりも不快な甘さではない。 土方は総悟を見て、勝手に満足したような様子を、愛想のない表情にちらりと含めた。そして、書き物に戻っていく。 あーあ、と胸中でため息をつく。 そんなものが欲しいわけじゃないのに、と頭の片隅でちらりと思った。総悟の欲しいものはこれっぽっちもくれないくせに、こういうものは、ぽん、と与えてくるのだ。 総悟は口に広がる甘さをゆっくりとかみしめ、それがぽたりぽたりと胃に落ちていくのを感じた。 (05/9/24) |