コーリング 服部平次が東京に来ない。 新一は手の中に収まった携帯電話を玩んだ。ぱかりとフリップを開いて、ボタンを操作する。ピ、ピ、という音と共にひとつの番号が画面に表示される。しかし指はそれ以上動かずに、通話ボタンを撫でると再び折畳んだ。知らず息が漏れる。 夏はとっくに過ぎ去り、今は秋も終わりに近い。風が冷たくなってきている。 夏の前、思えば春にもなっていない頃から姿を見せないその相手に、胸中で悪態をついた。 ったく、顔ぐらい見に来いっての。 これが以前ならば口喧しい奴が来なくていいなんて思っていたかもしれないが、今はそんな平次に不満を抱く。 新一は小学生だったコナンの姿から、元の高校生へと戻っていた。 まだ冷たい風の吹き止まない時期、新一は、自分の身体を毒薬で小さくした組織を追っていた。今まで何度か邂逅してきたその組織の全容をなんとかつきとめることに成功し、警察やFBIと協力して組織の悪事を暴こうとしていたのだ。 そしてついに組織は法の下に引きずり出されることとなった。 元組織の一員で、新一を小さくした薬の開発者でもあった灰原は組織に残っていた薬のデータを手に入れ、その解毒剤の調合を成功させた。今までに作った試作品とは違い、完全に毒薬の影響を中和し元の姿に戻すことのできるものだと灰原は言った。 しかしそれを飲むことは一種の賭けでもあった。マウスでの実験はなされていたが、人間にも同じく問題なく効果が得られると言い切ることはできない。それでも新一は、自身が被験者としてもその解毒剤を飲むことを提案した。 もし解毒剤が完全なものでなかった場合、灰原が飲めばその薬の研究は半ばで終わってしまう危険がある。それに強く元の姿に戻りたいと願っている自分は、多少のリスクがあったとしてもそれを飲むことに抵抗はない。 灰原はこの新一の提案に最初は難色を示していた。しかし新一の強い希望と意思に負け、解毒剤は投与されることとなった。 組織の壊滅に協力を惜しまなかった平次には解毒剤を飲むことを伝えていた。リスクのあることであるというのは伏せていたが、そこは仮にも西の名探偵、薄々は気付いていたようだ。けれども彼は、「工藤に次に会えんの、楽しみにしとるわ」と伝えた電話口で笑っていた。 結果は成功。新一は元の高校生の姿に戻ることができた。また突然子供になってしまったり体調が変化したりすることも考えられたのでしばらくは経過を見ながらだったが、夏を過ぎた辺りには、もう平気だろうとの灰原のお墨付きをもらった。 多少体力は落ちているようだったが生活に支障もなく、元の「工藤新一」へと完全に戻れたと言っていい。 身体が戻ってすぐ、心配をかけた平次には早くに伝えておくべきと、新一は携帯のボタンを押していた。 『……もしもし?』 コールは七回。出れない状況なのかと思った瞬間に繋がり、ややあって柔らかなイントネーションの声が聞こえた。 「服部?」 この子供のときと違う新一の声を聞いて、きっと平次は少し驚いて、そして盛大に喜んでくれるだろう。そんなことを期待しながら名前を呼んでいた。 『……工藤?戻ったんか…?』 しかし返ってきたのは静かな声。息を詰めたその様子に、戸惑う。そんな彼の声は予想していなかった。 「あ、ああ…戻ったぜ、元の姿に。成功だ」 告げると、ほうっと深く吐く息遣いが聞こえた。 『よかった、ホンマ…』 そして続けて聞こえたのは、心からの安堵が漏れる声。安堵と喜びと他の多くが入り混じったような感情が、電話口から新一に伝わってくる。 正直、平次がこれほどに自分を心配してくれているとは思っていなかった。いつでも前を向いている平次には、不安よりもいい意味での楽観が合っている。 しかし思い返せば、彼は以前夢に見たことを不安に思い、コナンであった新一を大阪に呼び寄せたことがあった。そう深刻な様子は見せていなかったが、直感と言うべきその夢を内心はずいぶん気にしていたようだ。 きっと大阪人の気質や持ち前の明るさが不安を不安と思わせないようにしていたのだろう。そんな平次の見せた素直な感情は、新一の心を暖かくさせた。 コナンであったときに巡り会った、新一にとっての無二の友人。平次の方も同じく思ってくれているのだと感じる。 「……ま、夏過ぎぐらいまでは様子見な部分もあるらしけど、でもほぼ完全復活と言っていいぜ。あの灰原が不安はそうないって言い切ってたしな。念のために遠出なんかは夏が終わるまで駄目だってことだから、そっちに顔出しにはいけねーけどよ」 暗に、東京に来いと促してやる。 『そっか。まあ、よう気ぃつけや』 安心で気が抜けたのか、あっさりした返事が返ってくる。新一はそれをたいして気に止めずにいた。 平次のことだからきっとすぐにでも東京にやってくると思っていた。用事があってもなくても、大阪からコナンに会いによく東京へは来ていたのだ。元に戻った新一の姿を見に来ないことはないだろうと。 しかし、一向に平次が東京へやってくる様子はなかった。ばかりか、よくかかってきていた電話もそれ以来殆どない。こちらから催促するのもなんだか憚られ、連絡も碌に取らないうちに夏が過ぎた。 遠出の許可も灰原から降り、大阪に行くこともできるようになったが、こっちからわざわざ行ってやるのも癪な気がしてそれはしなかった。それに新一は休学していた分の補習や、迫った受験のための勉強でそれなりに忙しかったのだ。 変わらず舞い込んでくる事件の解決に手を貸していたりもした。平次と会えばそんな事件の話で盛り上がれるだろう。対等に意見を交わせる相手との推理談議は新一の心を満たすものであり、それすら叶わないことにやってこない平次への不満もさらにつのる。 気付けば半年ほども顔を合わせていない。新一はよく、平次の屈託のない笑顔を思い出していた。そしてその度に湧き起こる、ぽっかりと穴の開いたような気持ちを持て余している。 日曜日。休みの日だが学校の図書室で勉強をしていた新一は、昼の間を使った後帰途についていた。夕方にはまだ早い時間で、今日この後は自宅の書斎でゆっくり読書をしようか等と考えながら歩く。 途中の角にある最近できた小奇麗なカフェの前に差し掛かった。女の子に人気のある店で、クラスの女生徒が話題にしているのを耳にしたことがある。そんなことを思い出しながら何気なく硝子窓の中の店内に目をやった。 するとよく知っている顔と目が合う。彼女は笑顔になると、ちいさく手を振った。驚きながら笑って振り返し、連れのいるらしい彼女の前をそのまま通り過ぎようとすると、その連れがこちらを向いた。同じく見覚えのある姿であることに気がつく。 新一は更に驚いて、思わず店内に足を向けた。 「新一」 最初に視線の合った幼馴染が手招きしながら新一を呼んだ。変わらず可愛らしい笑顔を浮かべる蘭に少しだけ面映い思いを抱きながら、そちらへ寄る。 「工藤くん!久しぶりやなあ」 四角いテーブルに向かい合わせに座っている蘭の連れは、ぱっちりとした瞳で新一を見た。 「久しぶり、こっちに来てたんだ?」 「うん、蘭ちゃんとこ遊びに来ててん。せっかくやから工藤くんにも会いたい思ってたとこやったんや、グッドタイミングやね」 生粋とわかる関西弁でぽんぽんとしゃべるのは和葉。座って座ってと促され、二人の間の席に着いた。 「あいつは?」 和葉がここにいるということは、いつも一緒にやってくる彼女の幼馴染もこちらにきているのだろうと思った。だから和葉がいるのを見て驚いたのだ。 今まで連絡もよこさないでおいて急にやってくるなんて、顔を見たら文句をひとつどころか思いつく限り言ってやろうと考えながら、笑顔で顔の見えない彼のことを尋ねる。しかし、和葉からは意外な返答が返ってきた。 「平次は来てへんよ。誘ったんやけど、なんや、用事あるゆうてな。どうせまた事件なんやないの?」 「なんだ…、来てないのか?」 一気に興を削がれた。 しかしいつもなら必ず二人でやってくるのに、どういうつもりなのかと思う。それと同時に期待を裏切られて、落胆する気持ちを抑えられない。 「服部くん最近こっちあまり来ないね。どうしたのかな」 「一応受験生やから、平次のおばちゃんも東京来んのなかなか許してくれへんとか言うてたで」 「…んだよ、それならそうと電話ぐらいしてこいっての」 思わず呟いてしまった言葉を、蘭に聞きとめられた。 「服部くんと連絡取ってないの?前はよく連絡し合ってたみたいなのに…」 「ん、ああ…まあ…」 なんと答えていいものかわからず、曖昧に言葉を濁した。 「新一、今日も図書室に行ってたの?」 一応学校へ行くからと、制服を着ていた新一に蘭が尋ねてくる。新一の前には、蘭が「ここのおいしいんだよ」と言って頼んでくれたレモンパイが運ばれてきていた。それをつつきながら答える。 「ああ、まだ補習課題終わってねーんだ。鬼みたいに出されたんだからよ…」 「しょうがないわよ、ずっと休学してたんだもの。本当なら留年なのに、補習と課題で許してくれるって言うんだから」 留年にならなかったのは、新一が内外に知られた高校生探偵であることも貢献しているのだろう。早く大学へ進学したいと思っている新一にとってはありがたいことだった。 「工藤くん、やっと追ってた事件解決して帰って来れたんやってな、」 「ああ…」 「工藤新一」はしばらく事件を追ってこの街を留守にしていた。本当は、コナンとして蘭の父親の探偵事務所に居候していたのだが。コナンから元の身体に戻ることができ、工藤新一は帰ってきた。コナンは海外の両親の元へ帰っていったことにしてある。 新一は蘭にもコナンが自分であったことを明かしていない。明かすつもりはなかった。しかし蘭は本当のところ、コナンの正体に気付いていたのかもしれなかった。 「でもよかったやん、蘭ちゃんもずっと工藤くんこと待ってたんやし、なぁ?」 にこにこと笑顔を浮かべながら、和葉が蘭の顔をうかがっている。その様子に新一は、ああ、まだ周りは知らないのだ、と気付く。 「和葉ちゃん…」 蘭が困ったように笑んでいた。紅茶のカップを口に運ぶ。新一は助け舟を出した。結局いつかは知られることになるだろうし、今言ってしまっても構わないだろう。 「ああ、まあ待たせすぎて、俺は結局振られちまったけどな」 「えっ…振られたて…ホンマ!?」 和葉のくるんとした目がさらに丸く見開かれた。蘭に問うように視線を注いでいる。 「うん、そうなんだ…あ、でも特に何か変わったってわけじゃないのよ、今までどおり幼馴染で変わりなくって感じで、ね?」 最後は新一に向けられた。新一は頷いてみせる。蘭の言葉に嘘はない。特にそれで気まずくなることもなく、変わらず幼馴染の関係でいる。 元の身体に戻って新一は、蘭に告白した。ずっと元に戻ったら伝えようと思っていた。結果はどうあれ、伝えることは必ずしようと決めていた。 新一は蘭のことが好きだった。けれども実際にそれを告げることが叶った時、自分がその気持ちを変わらず持っていたのかは、わからない。新一は蘭の断りの言葉を聞いてもそれほどにショックではなかった。蘭の返事も多分予想できていた。 新一はずっと蘭の前から姿を消していた。そして一方でコナンとして蘭の傍にずっといた。 傍にいるのに、新一のことを待ち続ける蘭を見るのはとても辛かった。しかしコナンとして蘭に接する時間が経つにつれ、その想いは薄れていったように思う。きっと、蘭も同じように想いを変化させていたのだろう。 「ありがとう、新一。すごく嬉しいよ。でもね、私新一のこと、待ちすぎてたのかもしれない」 そう言った蘭の綺麗な笑顔を覚えている。 「でも…、わがままかもしれないけど幼馴染として…新一の女友達として、一番でいさせて欲しいんだ。駄目かな?」 そしてそんな風に伺いを立ててくる蘭を、本当に愛らしいと思った。けれどその気持ちは恋心とは違うものだ。 「バーロ、もちろんいいに決まってるだろ」 新一は心からそう言っていた。 これでよかった、と思える。告白に後悔はない。言わなければ蘭も自分も捕らわれたままだった、きっと。 >NEXT |