Atlas



 初夏の日差しが気持ちよく差し込む。
 新一は、無償の安らぎを与えてくれるそれに、頬を摺り寄せた。
 気持ちいい…まだ、起きたくねえな……
 毎朝懲りずに思うことを繰り返し、再び上質の肌触りの毛布に顔を埋める。しかしこの時間がもう長く続かないことは知っている。そろそろ、「同居人」が顔を出してくる頃合だった。
 案の定それから五分と経たないうちに、ノックと共に新一の寝室の扉が開け放たれる。
「工藤、朝飯できてんで、起き」
 こちらへ出て来ても少しも変わることのない西の言葉を操って、同居人が新一を起こしにかかる。頭では起きるべきだ、とわかっているが、天邪鬼な身体は寝返りを打って丸まった。
「うん…」
 口から出るのは寝ぼけ半分のそんな呻きのみ。しかしそんな事態にももう慣れているらしい同居人は怯むことなく新一の傍までやってきて、頭の上から声を振らせる。
「さっさと起きんと、遅刻するで。今日工藤は一限やろ、」
「……わかった、起きる」
 こちらも足掻いても無駄だとはわかっている。眠い瞼をなんとか引き上げて、ベッドから這い出ると、平次が満足そうに笑んだ。
「はよ支度せぇ」
 そう言い残して階下へ降りてゆく。もうすっかり馴染んでしまった朝の光景だった。
 新一は大きく伸びをすると、クロゼットから着替えを引っ張り出した。


 平次をこの家へ迎え入れて、一ヶ月近く経った。
 気の知れた相手とは言ってもやはりそこはあくまで他人、生活面での諍い、行き違いも多少はある。しかしお互いそれを後に引きずるようなこともなく、概ね上手くやっている。
 着替えを終えた新一は一階に降り、洗面所で顔を洗った後、ダイニングへと向かう。
 平次は高校時代部活の朝練などで早く起きていた所為か、朝には慣れているようだった。対して、新一はさっき起こされたときのように朝は弱い。そのため、同居生活の朝食係は自然と平次の役目となっていた。
 その日常となりつつある風景は、まだ同居を決めていなかった頃、平次が泊まりに来た際の朝を新一に思い起こさせる。
 あの時平次は、東京暮らしの部屋を決めるために上京していた。いい部屋がみつからないと嘆く平次の隣で、新一は、「うちに来ればいいじゃねえか」という言葉を何度も飲み込んでいたのだった。
 躊躇った理由ははっきりしている。いい部屋がみつかったのというのなら、誘いの言葉など口にしなかっただろう。しかし結局、平次が部屋を決められず困っている様子に、耐えきれず新一は同居を持ちかけたのだった。
 正直なところ、断られたら、という思いは強かった。一緒に暮らす事は新一にとってリスクもあったが、それよりも、断られたときの失望の方が怖かった。
 それでも、平次はその誘いを笑顔で「嬉しい」と受けてくれたのだった。その事実は新一に、隠した想いの辛さと共に、火の灯る幸福感を運んできた。
 本当に、重症だよな。そんな風に心の底で苦く思う。
 同じ家に暮らすという、今までよりもずっと平次との接触の多い時間を過ごしている。そんな中、思わず零れそうになる想いを何とか押し込めたのは一度や二度でない。
 新一は、平次という男とはずっといい関係であり続けたかった。よい友人でライバルで相棒。その関係を壊したくなかったし、薄れさせたくもなかった。だから、自分の想いには目を瞑っている。いつか、きっとこの想いなら薄れ行くだろう、と。
 今の状況ではちっとも薄れるようには思えないし、目を瞑りきれていない部分も多いのだけれど。

「今日は俺ももう行くし、後ろ、乗ってくやろ?」
「あれ、お前も今日一限だっけ?」
「いや、二限からやけど。早速レポート課題出されたんや。メディア行ってやろう思て。あ、工藤は三限空きやったな。俺もやから、昼飯はそんとき一緒に食お」
「てか、お前なんで俺の時間割把握してんだよ」
 新一はトーストを頬張りながら、向かいでコーヒーを啜って淀みなく言葉を紡ぐ平次に、近頃気になっていたことを訊く。起こされる際にも思ったが、どうやら平次は新一の時間割をきちんと頭に入れているらしい。
「履修決めるときに見せ合いっこしたやん」
 確かにお互いにさらりとは見せ合っていた。新一の方も、平次の時間割はそのときにざっと覚えたが、それにしても平次の口からは自分の時間割と同等のように新一のそれが出てくる。きっちりと把握され、朝はそれに合わせてちゃんと起こしてくれる。なんだか世話を焼かせているようで、気恥ずかしい。
「それに空き時間とか覚えとけば、大学でも落ち合い易いやろ」
「そうだけど…。別に家でも顔合わせるだろ、大学で会わなくたって」
 本心とは裏腹に、新一の口からはそんな言葉が出る。
「ええやん。俺、工藤大好きやし」
 しかし、平次は笑ってそんなことを言った。戯れとわかっているが、頬に熱の集まりそうになるのを感じながら、「ばーろぉ、」と口の中でもごもごと返す。
 平次と同居するようになって、新一が困ると思った事のひとつが、この平次の冗談だった。
 以前、新一がコナンだった頃にも、臆面もなく「会いたかったから」や「自分達は巡り会う運命」などといったことを口にしていたが、顔を合わせる時間が多くなった今、その類の言葉を聞く機会も更に多くなった。
 そして気のせいか以前より、その内容も些かオーバーになっているように思える。先程のように、「俺工藤んこと好きやし、」などというストレートな言葉を何度と口にする。
 平次なりの、親友としての新一に対する冗談に被せた親愛表現だとはわかっている。しかし、想いを秘めている身としては心穏やかにいられない。反応してしまいそうになるのを何とか誤魔化すのに苦労する。
 そして、平次も自分のことは好いてくれているのだと思うと同時に、それは「友情」以上のものではありえないという実感が心に沈む。
 自分は男で、何より平次には今、想いを寄せる異性がいるから。
 そうした相手がいると知って新一は何度か、それとなくどんな相手かを平次に訊ねていた。しかし、平次はその度にあまりはっきりとしない返事しかせず、新一は未だその相手を知らない。


 愛車を出してきた平次は、門の前で待つ新一にタンデム用のメットを放る。常備されているそれは、この東京では今のところ新一専用のようなものだった。
 メットを着け、メタルブルーの車体、平次の乗るその後ろへと跨った。
「工藤一限て、何の講義やったっけ?」
「認知心理、渡辺の、」
「ふうん、どない?」
「講義内容はまあまあだけど……一限だし出欠甘いしで、教室に人が少なくてだれ気味だな」
「はは、ま、そんなもんやろな」
 そんな他愛のない会話をしながら、平次はエンジンをふかし、バイクを発進させる。新一は、平次の腰に回した腕に力を入れ、しっかりとした背中に身体を寄せた。
 平次の操るネイキッドのバイクは慣れた走りで、新一たちの通う大学へ向かう。大学へ着いたのは一限の始まる直前だったので、新一は校舎前で降り、駐輪場へとバイクを運ぶ平次を見送った。

 一限と二限の講義をこなした新一は、携帯に入っていたメールを受け取って学食前へ行く。朝の言葉通り昼食を共にするために、そこで平次と落ち合った。昼時、学生で賑わう学食へと連れ立って入る。「何にしよかなー、」などと平次が迷っている横を通り過ぎ、新一はさっさと決めて先に会計をしてしまった。
 から揚げ定食の載ったトレイを手に平次の元まで戻ると、平次は一人の女学生から声をかけられているところだった。
「あれ、平次くん?」
「……優奈さん!」
 お互いの顔を見合って、驚いたように声を上げている。
 新一には見覚えのない顔だった。セミロングの髪は黒のストレート、驚いた表情にぱっちりと開いた瞳は黒目がちで、大人びて綺麗な顔立ちに愛らしさを加えている。
「え、平次くんうちの学生なの?」
「そうなんですわ、今年入学で、」
「知らなかった、びっくり。久しぶりね」
「ホンマですね」
 標準語で話しているが、言葉の端に平次と同じイントネーションが窺える。大阪での知り合いなのだろうか。
「服部、」
 声をかけると、平次が振り向いた。それにつられてその優奈と呼ばれた女学生の視線も新一に向けられる。
「おう工藤、スマン。……あ、この人は高校んときの先輩で中山優奈さんや。優奈さん、こいつは工藤、工藤新一です」
 後半は目の前の女性に伝えられ、新一は「どうも、」と軽く会釈をする。
「え、工藤くんて、あの工藤くん?」
 すると、驚いた瞳をこちらにも向けられて、新一は思わず瞬く。そしてそのままちらりと平次の方へ視線を流した。
「お前……どんだけ俺の名前言いふらしてんだ?」
「いや、ちゃう、ちゃうて」
 平次は大阪で、「工藤が工藤が」と、ことあるごとに新一の名前を出していたとは和葉から聞いていた。新一にはその程度は測れなかったが、少なくとも面識のない相手から「あの、」と称されてしまうくらいには、平次の口から自分のことは語られているらしい。それは嫌というわけではないが、自分の知らないところで話題にされているのが落ち着かないのは当然だろう。
 そしてこの男の口からどんな風に自分のことが語られるのかということは、新一にとって、どうしても気になってしまうことだった。
 平次は弁解するように言った。
「優奈さんは、俺の一個上で、女子剣道部主将やったんや。更にミステリ好きで、推理小説の話なんかもようしとってな。ほんで、俺と同じに探偵やっとる高校生がいるってことで、工藤の話がでたんや」
 へえ、と相槌を打ちながら視線を移すと、にこりと微笑まれた。唇には薄くルージュが引かれている。睫毛は長く綺麗なカーブを描き、頬はほんのりと桜色。剣道をしていたからか、すらりとした手足に凛とした背。
 かなりの美人だ、と思う。
「平次くんからよく話は聞いてるわ。『工藤はすごい奴なんや〜』って、それはもうしつこいくらい」
 少し悪戯っぽく微笑む優奈に、平次は息巻いて言う。
「いや、ホンマですよ。工藤は俺が認めた男なんやから、」
「ほら、また始まった。知ってるて、もう何度も聞いたし」
「何べんかて言わせてもらいますわ」
 平次の変わらない関西弁につられたのか、優奈の言葉もいつの間にか関西のイントネーションが強く現われている。
 優奈と話す平次の様子は、どことなく嬉しそうだ。
 先輩後輩でありながら二人の間に流れている砕けた雰囲気からは、親密さが窺えた。話題は逸れて、お互いの近況などを伝え合っている。新一は、二人の会話の隙を見て口を挟んだ。
「俺、先に席取っとくから」
「お、すまん工藤。おおきに」
 そう言って新一に手を軽く振った平次が、再び笑顔で優奈との会話に戻るのが目の端にかかる。新一はその様子を視界から外しつつ、学食内の席へと視線を滑らせた。

 トレイを持って席の間を歩いていると、側から声をかけられた。
「お、工藤」
 一角の円形テーブルを陣取っているのは同じ講義を取ったのがきっかけで、平次を含め学内でよく連れ立つ仲間達だった。そのうちの一人が新一に手を上げて呼び止める。
 そのテーブルに空席が二つあるのに目を留め、新一は返す。
「ここ、いいか?」
「もちろん」
 軽い返事を受けて、新一はトレイを置き、空いた席に落ち着いた。
「工藤、今日の認知心理出たか?」
 先に席についていた三人の学生のうち一人が新一に問いかける。
「ああ。お前、いなかったなそういえば」
「そういえばって、冷たいな〜。なあ、後でレジュメだけコピーさせてくんねえか?」
「はいはい、わかったよ。しょうがねーな、」
「サンキュー、恩に着るぜー」
 新一は皿に載ったから揚げをつつきながら、拝む仕草をしてみせる大島に苦笑を漏らす。その隣に座る神谷は、この顔が知り合ってからの短い期間でもう何度か見られる光景に、呆れた顔を見せている。
 そして、先程新一を呼び止めた芳川が、気付いたように疑問を口にした。
「そういえば、服部は?一緒じゃないんだ」
 新一は、その問いに目視で平次のいる方を示した。三人の視線がそちらに誘導される。
「げ、なんだ服部、あの美人は」
 目敏く、平次の背中越しに微笑む女学生に気付いた大島が声を上げる。
「高校んときの先輩だってさ」
 必要最低限の情報を投げてやると、優奈は、女と遊びには食いつきの良い学生達からの視線を一身に集めた。
「マジかよー。ずいぶん親しそうじゃん」
「あ、もしかしてあれじゃないのか。服部の、好きな人」
「え?」
 思いがけず発せられた神谷の言葉に、新一はから揚げを口に運んでいた手を止めた。
「工藤も、知ってるんだろ?服部がかなり熱上げてる相手がいるって」
「……ああ、まあ。一応」
 曖昧な返事をしつつ、探るように訊ねる。
「本人が、言ってたのか?」
「おう、そういう話ないのかっつったら、好きな奴はいる、って言うからよ」
「つっこんだらいろいろ話してくれたけど、それが誰かまでは教えてくれなかったからなあ」
 大島と神谷の言葉が続く。
「でもかなり熱っぽかったよな。なんせ、『こいつしかいないって思ってる』――だもんな、」
 更に芳川も言う。
「ふうん……」
 新一は平次の口からはその想い人のことを殆ど聞いていない。平次はその話題を避けているようにも見えた。けれどこの目の前の三人には、それが誰かを言うまではしなくとも、想い人のことを語っていたらしい。
 なんでこの三人には話して、俺には話さないんだ?
 ぽつりと、心の中で思う。
「にしてもそんときには、服部ならどんな女でもすぐ落とせるだろって思ってたけど」
「あんな美人が相手なら、しょーがねえな、」
「服部って、年上好きそうだよな」
「あ、それ俺も思ってた」
 平次を肴に盛り上がる三人の会話を聞きながら、新一は、おそらく優奈相手に笑顔を浮かべているのだろう、平次の背中をそっと見つめた。




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(07/1/4)