「飲み会?」
「ああ、そや。優奈さんがな、所属してるミス研で俺らのこと話したら是非呼んでくれっちゅうことになったんやて。飲み代はあっち持ちらしいで」
 朝から曇りがちな空の日だった。その日の四限の講義を共に受けた後、そのまま帰宅の途に着くため、平次のバイクが置かれている駐輪場へ足を運んでいた。
 学食で再開してからそれまで会わなかったのが不思議なように、平次と優奈は学内で会って話などをしているらしい。その度に話は弾んでいる様子だ。そのときに誘われたのだと平次は言った。
「今週末っちゅうことやけど、工藤もどうや?」
「飲み会ね……」
 笑顔で訊ねてくる平次に呟いて、新一は浮かない色の空を見上げる。黒を含んだ雲が、頭上を覆っている。
「……俺はパス。お前だけ、行って来いよ」
「そか。…ほんなら金曜は行ってくるから、飯は適当に食っといてや。当番俺やったのに悪いけど、」
 断った新一に対して、平次はあっさりと答えた。当番制にしてある夕食のことを伝える口調からは、新一を誘う意思は既に窺えない。
 平次は、新一がこのような飲み会などの場に行くことを好いていないということを知っている。他人との交友を深めるのが嫌いというわけではない。ただ、『高校生名探偵、工藤新一』を求められる場では、下手に新一のことをマスコミから見聞きしていた人間に『失踪中』のことについて触れられることがある。工藤新一は『失踪中』、何をしていたのだ、と訊ねられることは新一にとって、ただ笑顔で流すには重過ぎた。
 だから今回も新一は断るだろうと踏んでいたのか、あっさりと一人で行くことを決める平次の態度に、しかし新一は物足りなさを感じていた。
 無理やりに誘って欲しかったわけでもないし、もちろん、新一が行かないのなら自分も行かない、などという女々しい馴れ合いを望んでいたわけでもない。新一が行かないというのなら、招かれた身として平次は一人でも行くべきなのだろうとも思う。
 しかし平次がただそれだけのことで行くのではないとは、新一にもわかる。
 平次だって学生名探偵という触れ込みで招かれるような飲み会に、進んで参加したいということはないだろう。平次の性格なら頼まれれば、探偵のことを面白く話して聞かせ場を盛り上げることくらいはするだろうが、探偵というものはそのように語るものでないということを、自分達はここ数年の間に実感として学んでいる。
 それでもその場へ行くのは、他でもない、優奈からの誘いだからなのだろう。
 それが大阪での親しかった先輩、という認識の上だけであるかどうかは、周りの噂と新一の推測の下での判断でしかないが。
 駐輪場に辿り着き、平次がバイクのエンジンを入れる。その後ろにメットを手に跨った。平次がメットを被る。その背中に視線を落としながら自分もメットを被って、新一は呟いた。
「……美人だよな、」
「なんや?」
「優奈さん、」
「ああ、そやな。……高校んときも、剣道部のやつらで惚れてんの、仰山おったなあ。剣道も女子ん中じゃ一番強かったしな。なんや今はやっとらんゆうとったけど、勿体無いわ」
「んで、お前も惚れてたうちの一人、ってか?」
 バイザーの下からふざけた調子で言った新一に平次は、はは、と笑った。
「せやな、そうやったかもしれんな」
 過去形でそんな風に言った平次の言葉は、しかし新一の胸には生きている言葉と聞こえた。
「雨降り出したらかなわんし、さっさと帰るで」
 そう言った平次がバイクを発進させ、新一はその背に捕まる。
 見上げた空に浮かんだ雲からは、今にも雨が零れ落ちそうだ。


「新一!」
 日曜の昼過ぎに駅前まで行った帰り、後ろから声が投げられる。鈴のように転がるその声は小さい頃から聞きなれたものだ。
「蘭、」
「久しぶりだね。どこか出かけてたの?」
「ああ、ちょっと本屋まで行ってきただけだよ。蘭は?」
「私もちょっと、お買い物、」
 蘭は可愛らしく微笑む。短大に進んだ蘭は、春休み中には会っているはずなのに、そのときよりもずいぶん大人びたように見えた。たった一ヶ月と少しばかりで、すっかり女子大生という雰囲気になった蘭を見て、女の子というのは不思議だ、と思う。
「……ねえ新一、時間あるなら、ちょっとお茶しない?」
「ん?ああ、いいけど」
 誘う蘭に連れられて入ったのは、いつか蘭と和葉と共にレモンパイをつついた店だった。店内に入ってからそのことを思い出して、そしてそのときのことを思い出して――ああ、と息をつく。
「何にしようかな、」
 席に着く蘭の荷物は小さなハンドバックひとつのみだった。蘭は、メニューを開いて熱心に見ている。
「新一、何か食べる?」
「俺はコーヒーだけでいい。蘭、何か頼めよ、」
「そうね、」
 店員を呼んで蘭が注文を伝える。そしてメニューを閉じて、テーブルに置かれた水に口をつけた。
「……どう、最近?服部くんとは、上手くやってる?」
「え、服部?」
 不意に平次の名前を出されて思わず言葉に詰まってしまう。そんな新一を不思議そうに見ながら、蘭は言った。
「同居、してるんでしょ?ちゃんと家事とか二人でしてるの?」
「あ、ああ……してるよ。あいつもそういうとこは、結構きちんとしてるし」
 新一も水で口を湿らせる。
「今日、服部くんは?」
「剣道部の試合に、助っ人に行ってる」
「応援、行かないの?」
「別に試合ったって、練習試合だし…」
 本当は、どうやら優奈も行くらしいと聞いて、行くのをやめた。邪魔になるのも嫌だったが、二人の様子を見たくないというのが本音だ。激励の言葉だけ投げて送り出すと、平次は少しだけ残念そうな顔をしていた。
 金曜の夜も、平次はなにやら上機嫌で帰ってきた。なんとなく落ち着かず遅くまでリビングで起きていた新一に、珍しく酒に酔った様子で絡んできたのだ。その上いつもの調子で「俺、工藤のこと好きやー」などと言うのでリビングから蹴り出して追いやった。
「行ってあげればよかったのに、」
 蘭はそう言って微笑む。
 以前、蘭、和葉と共にこの店で平次のことを話題にしていたときには、新一は顛末をうやむやにしたまま席を立った。そのため、蘭にははっきりとそのことを伝えていたわけではないが、
 知って、るんだよな。
 蘭に淡い想いを寄せていたのはもう昔の話。そのことに決着もついているし、気兼ねするようなこともないのだが、小さい頃からずっと一緒にいる幼馴染としても、やはり蘭に知られていることは少し居た堪れない。新一が今想いを向けているのが同姓で、しかもそれがあの服部平次、などと。
 不意に蘭が、くすりと笑った。
「そんなに警戒しなくても……私は新一のこと、反対したりしないから平気よ」
「蘭…」
 すっかり心中は見抜かれているらしい。和葉といい、蘭といい、女性というものはどうにも聡い。本当に、不思議だ。
「そりゃあね、びっくりはしたわよ。でも、それが新一の気持ちなら、私が反対できるはずもないし……それに服部くんって聞いてなんだか納得しちゃった」
「……どういう意味だよ?」
「新一、いなくなっちゃってたときも……服部くんとは、会ってたんでしょ?」
 新一のコーヒーと、蘭の頼んだケーキと紅茶が運ばれてきた。それらが並べ終えられるまで、会話が途切れる。
「そういうことよ、」
 店員が離れるのを待って、少しだけ淋しそうに蘭は言った。紅茶に口をつけ、ケーキに向かう。
 コナンであったとき、新一と平次は秘密の共有者であった。平次に秘密を無理やり暴かれたというのが正しかったし、知っていたのは彼だけではなかったけれど、でも彼と出会ったのがコナンのときでなかったら、こんなにも惹かれはしなかった、と思う。
 もちろんいい友人、相棒にはなっただろうけれど、恋心までには至らなかっただろう。強がってはいたけれど、コナンの身体でいつでも不安を抱えていた。
 平次は、そんな新一をどんなにも救ってくれていた。
 蘭が事情を知っているはずもなかったが、けれどやはり、薄々何かに気付いていたのかもしれない。
「……どっちにしろ、服部には好きな奴がいるんだから……どうしようもねえよ」
 言い放つと蘭は困ったように微笑んだ。新一は蘭が何かを言う前に、気になっていたことを訊ねてしまう。
「…なあ、遠山さんは、何か言ってたか?」
「和葉ちゃん?」
 同じく、新一の気持ちを知っている平次の幼馴染。新一に、平次が好きなのか、と問いかけた張本人。言わば新一と蘭と同じ関係の平次と和葉だ。新一の想いを、良く思っていないのではないか。平次に振られたという彼女ならなおさら。
 彼女が平次に一言告げれば、新一と平次の関係は壊れるだろう。しかし、平次は和葉から何も聞いていないようだった。同居にも反対された様子はない。
「特に、言ってなかったけど…」
 和葉は、知っているからかもしれない。彼女自身も告白して気付いているのだろう。平次の気持ちが、想い人から離れないことを。
 新一は、自分が見た優奈と話す平次の顔を思い出す。くすぐったそうな、幸せそうな、そんな表情。
「……でも、和葉ちゃんも私と同じだった思うよ?」
「え…?」
「あ、このケーキおいしい」
 満足そうにベリーのたっぷり載ったケーキを口に運ぶ蘭は、それ以上言う様子はなく、新一は意味を問い損ねた。
 銀のフォークがピンクの唇にケーキを運ぶ。新一はコーヒーを飲みながら、ケーキの皿に添えられた指先を見ていた。
「蘭の方は……どうなんだ?」
 不意の問いかけに、蘭の瞳がこちらを向く。
「今日は、買い物に行ってたんじゃないんじゃないか?」
 指摘すると、口元がぴくりと動いた。
「買い物にしては、荷物がないし……帰ってくるにもまだちょっと早い時間だろ?服装も、結構おしゃれしているみたいだし、」
 それに、蘭の左指。新一の見つめる先、確か一ヶ月程前にはそこに銀のリングがはまっていたはずだった。指輪の跡が残るそこは、つい先程までそれをはめていた証拠。
 多分こうして偶然会った新一をお茶に誘ったのも、一人になりたくなかったからなのだろう。
 新一の視線の先に気付いた蘭は、小さく苦笑した。
「さすがね、名探偵さん」
 新一は、それ以上先を促す言葉はかけなかった。
「……あのね。私、新一とはずっと一緒にいたかったんだ」
 蘭は、ケーキの皿に目を落としながら話し始める。しかしそれは、今日あった出来事を語ろうということではないらしかった。
「だから、あの時断ったの。多分あの時私が新一の告白を受けてたら、新一は私と付き合ってたでしょ?……本当は、もうそんな気がなくなってたとしても」
 新一は蘭を見た。思わぬ言葉に、驚く。蘭は気付いていた、新一の告白の本当のところを。
「もしそうしていたら、私達、長く続かなかっただろうなあって思って。付き合って、別れて……そうしたら、多分今のままじゃいられなかったでしょ?だから、言わなかった。今の関係、壊したくなかったから」
「蘭、」
 そして思っていなかった蘭の想いに、新一はかける言葉を持ち合わせていなかった。ただ、静かに落とされた瞳を縁取る睫毛を見る。
「きっと、他にいるんだと思うの。想い合いながら、ずっと変わらず一緒にいれる人……」
 今回の人はそうじゃなかったみたいだけど、と蘭は顔を上げて悪戯っぽく笑った。
 新一はぼんやりと思う。果たして、あの時蘭が自分の告白を受けてくれたとして、自分達の幼馴染という関係は壊れただろうか。
 そのときの自分の想いはもう遠くて、新一にはわからなかった。




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